マーカーは岡山藩池田家中屋敷跡です。
関連リンク – 岡山藩池田家上屋敷跡、「岡山藩中屋敷跡、備前橋跡」、岡山藩池田家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP451・コマ番号269/553から岡山藩屋敷の変遷について記載されています。P451・コマ番号269/553「上屋敷 大名小路」が上屋敷、P452・コマ番号270/553「向屋敷」が中屋敷になります。
池田慶政
[池田 慶政(いけだ よしまさ)は、文政6年(1823年)、豊前国中津藩主奥平昌高の十男として中津藩江戸藩邸で誕生。幼名を七五郎。初名は奥平 昌朝(おくだいら まさとも)、池田家に入ってからは初め諱を道政(みちまさ)とし、のち12代将軍徳川家慶より偏諱を授かり慶政に改名した。
天保13年(1842年)、備前岡山藩7代藩主池田斉敏の養嗣子となった。斉敏は、慶政の実父の奥平昌高と同じく薩摩藩島津家の出身で、血縁上は斉敏が慶政の従甥にあたるが、慶政よりは12歳年上である。その1ヵ月後に斉敏が急死したため、斉敏の養女(支藩鴨方藩主池田政善の娘)宇多子と結婚した上で家督を相続した。嘉永6年(1853年)、ペリー来航で幕府に対策を諮問された際、「鎖国の祖法をあくまで厳守すべきだ」と主張した。その一方で、幕命に従って藩士を房総半島などに派遣し、海防に当たらせている。
また、塩や砂糖の専売強化や質素倹約令などによる財政政策、洋式軍制の導入などを行なったが、あまりに厳しすぎる改革を行なった上、改革途上で部落差別問題などが起こったため、安政3年(1856年)に藩内で渋染一揆が発生し、加えて強い締め付けの影響で同年中に銀札(藩札)が札潰れ(発行停止)となり、改革は失敗に終わった。このため、勘定方や銀札方に属していた藩士にしわ寄せが来たと言われる。
文久3年(1863年)、病気を理由に家督を水戸藩主徳川斉昭の九男であり養嗣子としていた茂政に譲って隠居した。 (wikipedia・池田慶政より)]
池田茂政
[池田 茂政(いけだ もちまさ)は、常陸水戸藩主・徳川斉昭の九男(庶子)として天保10年(1839年)、水戸藩江戸屋敷で生まれた。幼名は九郎磨。のち斉昭より偏諱を授かって昭休(あきやす/あきよし)と名乗る。
嘉永元年8月2日(1849年9月18日)、忍藩主松平忠国の養子となって忠矩(ただのり)に改名する。嘉永3年9月12日(1851年10月6日)、従四位下民部大輔に叙任する。同年12月16日、侍従に任官する。安政3年12月16日(1857年1月11日)、溜間詰となる。安政6年11月23日(1859年12月16日)、安政の大獄によって父の斉昭らが処罰を受けると、幕府の顔色を窺った忠国により廃嫡され、水戸徳川家に復籍する。
文久3年2月6日(1863年3月24日)、岡山藩主池田慶政の婿養子となり、池田 修政(のぶまさ/ながまさ)と名乗る。同年2月8日、慶政の隠居により家督を継いだ。これは当時の岡山藩で、尊皇攘夷かただの尊皇を行なうかで藩論がまとまらなかったため、慶政が藩士の江見陽之進の進言を容れて、尊攘派の盟主的な存在であった斉昭の子を家督に就けることにより藩論をまとめようとしたためといわれる。藩主就任時に14代将軍徳川家茂の偏諱を授かって、諱を茂政に改める。
慶応3年10月15日(1867年11月10日)、大政奉還にともない、朝廷から元尾張藩主の徳川慶勝らとともに上洛することを命じられる。王政復古の大号令後の慶応4年(1868年)、15代将軍だった兄の徳川慶喜追討の勅命が出され、岡山藩も東征軍に参加するように命じられる。しかし、慶喜の弟である茂政は兄を討つための討伐軍に加わらず、3月15日に朝廷に対して病を理由に隠退・養子届けを出し、家督を鴨方藩主であった養嗣子の章政に譲って隠居する。 (wikipedia・池田茂政より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央右上・愛宕下大名小路右、毛利出雲守上屋敷右に松平内蔵頭(池田慶政)中屋敷が描かれています。)
カメラ西南西方向外堀環状線までが岡山藩池田家中屋敷跡になると思います。