マーカーは岡藩中川家中屋敷跡です。
関連リンク- 岡藩中川家上屋敷跡、西郷山公園(西郷従道邸跡、岡藩中川家抱え屋敷跡)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP436・コマ番号262/553から岡藩屋敷の変遷について記載されています。P438・コマ番号263/553「中屋敷 芝口一丁目」がこの地になります。
中川久昭
[中川 久昭(なかがわ ひさあき)は、文政3年(1820年)4月4日、伊勢津藩主・藤堂高兌の次男として生まれる。天保11年(1840年)12月6日、豊後国岡藩第11代藩主・中川久教の死去により久教の養女・栄子の婿養子として跡を継ぎ、同年12月28日には従五位下、修理大夫に叙任された。
幕末の動乱の中で岡藩は尊王派の勢力が大きかったが、親徳川家の藤堂家から養子として入った久昭は天保12年(1841年)に柳井藻次郎、小河一敏ら尊王思想家を岡藩の中枢から排斥した(岡藩七人衆の変)。後に小河は真木保臣らと結託して寺田屋騒動にも関与し、久昭に対しても尊王を訴えたが、久昭は動乱を傍観するのみにとどまった。また、藩でも大火や風雨による被害が相次ぎ、藩財政は困窮した。
慶応4年(1868年)3月11日、上洛した。明治2年(1869年)2月18日、駿府への派兵の遅れから謹慎を命じられた。同年6月19日、版籍奉還を行い、知藩事に就任した。 (wikipedia・中川久昭より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切右上・芝口二丁目左に中川修理大夫(中川久昭)中屋敷が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – 五千分一東京図測量原図 : 東京府武蔵国京橋区木挽町近傍(明治17・1884年)」(地図四つ切左下・芝口二丁目左側が岡藩中川家中屋敷跡になります。)
カメラ位置は新橋駅東口広場で、カメラ位置周辺が岡藩中川家中屋敷跡になります。