愛宕下藪小路

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愛宕下藪小路
[江戸時代の切絵図などを眺めてみると、新橋・虎御門外・愛宕下界隈には、稲荷小路、愛宕下大名小路、佐久間小路、田村小路(神保小路・ 小身(しょうしん)小路)、薬師小路、秋田小路、袋小路、鎧小路、三斎(さんさい)小路、藪小路と、「○○小路」と呼ばれる道が多く見られます。これらのうち、特に藪小路は、さまざまな地誌にその名が記され、『江戸名所図会』や初代広重の『名所江戸百景』にも描かれる江戸名所として広く知られていました。
藪小路は、現在の虎ノ門一丁目2、10~12、14・15番と虎ノ門一丁目16・17番、同二丁目3~5番の間、西新橋交番前から虎の門病院方面へと向かう道にあたります。道の南東側には慶長(1596-1615)の頃より細川三斎(忠興)の屋敷が置かれ、桜川に面する屋敷の北東に20間(約40m)あまりの竹藪が茂っていたそうです。
『紫の一本(ひともと)』や『御府内備考』など地誌には、藪小路の由来として、細川丹後守行孝(三斎の孫。肥後宇土(うと)藩主)邸内北東隅に小さな竹薮があり、この中で御秘蔵の御鷹が死んだため、それ以後、竹を切らず、そのまま残したとも、屋敷の金神(こんじん)(方位神。殺伐を好み、金神の方角は大凶とされる)というので、むかし、この所に竹を植え、「藪金神(やぶこんじん)」と唱えていたものが、いつの頃からかなまって「藪小路」となり、地名のようになったという説を載せています。また、北東は鬼門の方角にあたるため、そこには屋敷を建てず、空地として竹を植えたという説もあります。細川家の屋敷は、正徳4年(1714)から近江水口(みなくち)藩加藤家の屋敷となりますが、竹薮はそのまま残されたため、加藤家屋敷は俗に「藪加藤」と称されました。
現在では、ビルが建ち並ぶオフィス街の一角で、竹藪はもちろん、桜川も暗渠(あんきょ)化されて、当時を思い起こすようなものはありません。『新撰東京名所図会』によると、維新後も「藪加藤」の屋敷は残っていたものの、現在の愛宕下通りに面していることから、一部が住宅や商店となり、いつしか藪も刈り取られ、明治の末には、既に藪小路の面影は失われていたそうです。  (「資料館だより 第64号(平成21年9月30日発行)PDFダウンロード2.2MB – 港区名所案内 藪小路」より)]

名所江戸百景・愛宕下薮小路

[広重・愛宕下藪小路
愛宕下藪小路の竹藪は江戸の名所の一つで、江戸市民ならばすぐこの場所が分かるのだ。『江戸名所図会』(巻一)の挿絵には、四角い盛り土の上にはえる竹藪が見える。ちょうどここにあるような背の低い垣根に囲まれてもいる。ここは、水口(東海道は京都の四つ手前の宿場駅)の大名加藤家の上屋敷の東北の隅なのだ。竹藪の目的は明らかに鬼門の守りである。しかし何故竹なのか、地誌には何も書かれていないが、宮尾しげをによれば、加藤家の祖である清正の朝鮮における虎退治に由来するという。現在ここは、虎ノ門1丁目18番地の第10森ビルの角に当り交番が設置されている。考えてみると、これもまた守りの一つである。
 藪小路とはこの竹藪にちなんだ名前だが、加藤家の屋敷の裏屏ぞいに虎の門の水の落し口まで続く。小路は題名には現われても画面には登場しない。画面をはずれた右手の奥にある。代りに見えるのが南の増上寺の方角に向う広い通りだ。放水路にまたがる灰色の建物は加藤家の番小屋である。向いの屏は菰野(三重県)の大名土方家の上屋敷で、正門は画面をはずれた左側にある。(ヘンリー・スミス) (「広重・愛宕下藪小路: alpshima」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(万延元年・1860年)」
[絵図左上中程・木下飛騨守(木下俊程豊後日出藩)上屋敷と加藤越中守(加藤明軌近江水口藩)上屋敷の間が愛宕下藪小路です。また、加藤越中守の右に土方備中守(土方雄嘉伊勢菰野藩)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「八[144] – 12~20/144](絵図中央に藪小路と記述されています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「藪小路・解説は右ページ左から4行目から」(3-16)

桜川という大下水
[江戸川柳に『どぶ端に何のためだかどかり石〔誹風柳多留第一四七編〕』という句があります。絵をごらんください。『江戸名所図会』の「薮小路」の挿絵です。ここにも溝端に大きな石が置かれています。ホントに何のための石なのでしょう?
「どぶ」は、言わば江戸の町の「下水道」です。江戸の町では「溝」とか「下水」と言っていました。この絵にも通りの角に小さな竹藪が描かれていますが、この竹藪があったところから、この通りを「薮小路」と言っていたそうです。現在の港区虎ノ門一丁目10番と18番の間の道路に当たります。今はもちろん竹藪など無く、ごく普通の道路になっています。「この道路を昔は薮小路と言った」という説明板は建っていませんでした。
絵の石橋の下の水面に『桜川』と書かれています。江戸地誌の『御府内備考』によりますと、この「桜川」を、この付近の町では「下水」とか「大下水」と言っていたようです。
「桜川」は、江戸城の「外濠」から、現在の港区虎ノ門一丁目1番西新橋一丁目6番の境辺りで分岐して、愛宕下へ流れ、この辺りで、四谷辺り(現・新宿区若葉一~三丁目)から赤坂へ出て、溜池の縁を流れて来た「赤坂大下水」が合流していました。その先は芝を流れ、途中で、二方に分かれ、一方は東へ折れて浜御殿(現・浜離宮庭園)の脇で芝の海へ入り、もう一方はそのまま少し南へ行って、東へ向かってから南へ鉤の手に曲がり、芝大門の前を流れて金杉川(現・古川)に流れ込み、末は芝の海へ流れ込んでいました。ですから、四谷・赤坂辺りの下水が芝の海へ出ていたことになります。  (「江戸下水道散歩 弐拾|東京都下水道局」より)]

カメラ位置は「虎ノ門砂場」前で、カメラ西北西方向が愛宕下藪小路、道路右側が木下飛騨守(木下俊程・豊後日出藩)上屋敷で、左側が加藤越中守(加藤明軌・近江水口藩)上屋敷の裏になります。歌川広重の浮世絵・愛宕下藪小路はカメラ南南西方向を描いたもので、この方向に桜川が流れていました。

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