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愛宕山
[江戸時代から愛宕山は、武士たちの間の信仰と、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所であった。『鉄道唱歌』の第1番にも「愛宕の山」と歌われている。山上にある愛宕神社は、もとは1603年にこれから建設される江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩武士たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った。桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸藩の浪士達もここで成功を祈願してから江戸城へ向かったと言う。
現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。これは、江戸時代の寛永11年(1634年)1月28日、徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐国丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている。
以降、出世の石段を馬で登った成功例は今までに3例存在する。1例目は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬で、師の四戸三平が挑み、果たせなかった出世の石段登頂を明治15年(1882年)に自らが成功させ、これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許された。
2例目は参謀本部馬丁の岩木利夫で、大正14年(1925年)11月8日、愛馬平形の引退記念として挑戦し、観衆が見守る中成功させた。上りは1分ほどで駆け上がったが、下りは45分を要した。この模様は山頂の東京放送局によって中継され(日本初の生中継とされる)、昭和天皇の耳にも入り、結局平形は陸軍騎兵学校の将校用乗馬として使われ続けることとなった。
3例目は馬術のスタントマン、渡辺隆馬である。昭和57年(1982年)、日本テレビの特別番組「史実に挑戦」において、安全網や命綱などの安全策を施した上で32秒で登頂した。
出世の石段・wikipedia-photo
愛宕神社・wikipedia-photo
愛宕山より撮影した江戸のパノラマ。
愛宕山より撮影した江戸のパノラマ(1865〜1866年頃、フェリックス・ベアト撮影)。愛宕山の東一帯は愛宕ノ下と呼ばれていた。奥の広い緑地が現在の浜離宮恩賜庭園で、その右には江戸湾を臨むことができた。築地本願寺、台場なども見える。 (wikipedia・愛宕山_(港区)より)]
愛宕神社
[愛宕神社(あたごじんじゃ)は、東京都港区愛宕一丁目にある神社である。山手線内では珍しい自然に形成された山である愛宕山(標高26m)山頂にある。京都の愛宕神社が総本社である。
防火・防災に霊験のある神社として知られる。
1603年(慶長8年)、徳川家康の命により創建。また、徳川家康が信仰した勝軍地蔵菩薩を勧請し、愛宕神社を創建。同神社の本地仏として別当寺の円福寺に祀ったことにはじまる。明治の廃仏毀釈により円福寺が廃寺になると、勝軍地蔵菩薩像は近くの真福寺に移されたが関東大震災で焼失。1934年の弘法大師1100年御遠忌記念として銅製で復元され、現在は、1997年に建設された真福寺・愛宕東洋ビル一階外側に祀られている。
主な祭事
千日詣り(6月23日夜~24日早朝) – この両日に社殿前にしつらえた茅の輪をくぐり参詣すれば千日分の御利益があるとされた。別名・茅の輪くぐり。同時に催されるほおずき市はこの地が元祖。
例大祭(9月22日~24日) – 別名・出世の石段祭。2年に1度、神輿が男坂(出世の石段)を行き来する。
一の鳥居・wikipedia-photo、丹塗りの門と社殿・wikipedia-photo (wikipedia・愛宕神社_(東京都港区)より)]
[現在の港区愛宕1丁目にある標高26mの山。傾斜が急な石段の「男坂」とゆるやかな「女坂」があり、江戸の町や芝浦が見渡せるため、月見などの人気スポットとなった。また、毎年1月3日に山頂の愛宕神社で行われる奇祭「強飯式(ごうはんしき)」は、江戸で有名な行事であった。儀式は「毘沙門の使い」が鐘の音を合図に3人の徒者を従え、男坂を下って、別当寺にあたる円福寺に入り、宴を催している僧達の前で、約2mの大まな板を杓文字で突き鳴らした後、飯を食べることを強い、問答を終えると神社に帰るというもの。また、「毘沙門の使い」の出で立ちは、素襖(すおう)を着、大きな杓文字を杖として持ち、2mを超す太刀と擂粉木(すりこぎ)を帯び、注連飾りに使用したシダや橙などで飾ったザルをかぶるというもので、女坂の上にある水茶屋の主人が務めた。 (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「愛宕山 (あたごやま)」より)]
「愛宕神社ホームページ」 – 「境内のご案内」
愛宕神社境内図(「オープンストリートマップ」より。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図」(絵図中央左上に愛宕山が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御放鷹御成御膳所圖」(コマ番号37/99・愛宕山御膳所絵図)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「其一愛宕下・愛宕山権現社解説-1」(3-17)、「愛宕社総門其二」(3-18)、「愛宕社其三」(3-19)、「愛宕山権現社解説-2」(3-20)、「強飯式(ごうはんしき)」(3-21)、「愛宕山権現社解説-3」(3-22)
其一愛宕下(拡大図)
[図会は愛宕社総門其二の続く画で、描かれる真福寺は1995年(平成7年)、「真福寺・愛宕東洋ビル」という近代的ビルの高層建築物に建て替えられ、真言宗智山派の拠点にもなっている。真福寺左側が現在愛宕神社車道になっています。]
愛宕社総門其二(拡大図)
愛宕社其三(拡大図)
[山上愛宕山権現本社図]
強飯式(ごうはんしき)(拡大図)
狂歌江都名所図会 – 愛宕山(拡大図)
「東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「芝愛宕社千日恭」(3-31)
「東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「京橋新橋佃田島住吉築地御堂愛宕社」(6-78)[京橋から新橋方向の鳥瞰図です。図会右ページ右上に愛宕山権現社が描かれています。]、「愛宕権現解説・右ページ左から4行目より」(6-77)
絵本江戸土産 – 愛宕権現(拡大図)
名所江戸百景[歌川(安藤)広重](芝愛宕山・wikipedia-photo)
葛飾北斎作「新板浮絵芝愛宕山遠見之図」(「葛飾 北斎 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」より)
「愛宕神社 大鳥居 – Google Map 画像リンク」、「愛宕神社 出世の石段 – Google Map 画像リンク」、「弁財天社 – Google Map 画像リンク」、「将軍梅 – Google Map 画像リンク」、「愛宕神社 – Google Map 画像リンク」
カメラ初期設定方向が愛宕山男坂で、右方向に女坂があります。
男坂の坂上のカメラです。
女坂の坂上のカメラです。
カメラ初期設定方向が愛宕神社で、反転すると男坂です。
愛宕神社前のカメラです。
愛宕神社拝殿前のカメラです。