旗本仙石伯耆守屋敷跡

マーカーは日本消防会館です。

旗本仙石伯耆守
[仙石 久尚(せんごく ひさなお、承応元年8月19日(1652年9月21日) – 享保20年7月23日(1735年9月9日))は、江戸時代中期の旗本江戸幕府大目付。通称は次兵衛(じへえ)。官位は従五位下丹波守・伯耆守。隠居後には丹波入道と呼ばれた。
元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ちとって吉良邸を出た赤穂46士(注:47人目の寺坂信行は討ち入り後に隊から外れたと見られる)は、吉田兼亮富森正因の2名と別れて主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。吉田と富森の両名は、そのまま大目付仙石久尚の屋敷へと向かい、自首手続きを行なった。なぜ久尚に自首したのかであるが、どうやら仙石家が浅野家の遠縁であったためようだ(久尚の兄、仙石久信の妻は安部信盛の娘だが、この信盛の曾孫安部信峯は浅野長矩の従兄弟)。
久尚はこの両名から事情を聞いた後、仙石家家老井上万右衛門に聴取書をつくらせ、吉田・富森の両人はそのまま仙石邸へ置いて、自身はまず月番老中稲葉正通邸へ立ち寄って、この後江戸城へ登城した。また吉良義央の公子吉良義周も、糟谷平馬を使者にして赤穂浪士が討ち入ってきた旨を稲葉邸に届け出ている。また泉岳寺からも寺社奉行阿部正喬へ報告があり、町奉行松前嘉広からも報告があったので大体書類は出揃い、老中の評議が行なわれ、ひとまず46士は細川綱利松平定直毛利綱元水野忠之の4家に分割してお預けにすることが決まった。午後6時頃、仙石は、部下にあたる徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の三人を泉岳寺へ派遣し、46士に対して仙石邸へ移動するよう指示した。そして、仙石邸での取り調べの後、46士にそれぞれの預かり先を言い渡した後、彼らを四藩に引き渡した。  (wikipedia・仙石久尚より)]

[赤穂浪士たちが泉岳寺から仙石屋敷に到着したときに足を洗ったという井戸があったといわれ、現在はビルのエントランスに「義士洗足の井戸」として足を洗う義士たちをイメージしたと思われるオブジェが作られています。  (「坂東三津五郎公式ホームページ」より]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図」[絵図右上・汐見坂右方向に仙石次兵衛が旗本仙石伯耆守屋敷です。]

カメラ西南西方向が旗本仙石伯耆守屋敷跡(現日本消防会館)で、エントランス右壁に「義士洗足の井戸」を記念した噴水が設置されています。

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