柳生藩柳生家上屋敷跡

マーカーは柳生藩柳生家上屋敷跡(東京美術倶楽部)です。

関連リンク – 柳生藩柳生家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP716・コマ番号402/553から柳生藩屋敷の変遷について記載されています。P717・コマ番号402/553「上屋敷 増上寺裏門前」がこの地になります。

柳生藩柳生家上屋敷跡
[関東大震災両国の東京美術倶楽部社屋倒壊後、同地に再建するか他によりよい地を選ぶか検討の結果、芝の当時売りに出された旧服部金太郎邸の土地(旧柳生但馬守上屋敷跡)に、やはり売りに出されていた旧池田成彬邸を移築し、大正13年応急的措置として東京美術倶楽部社屋としました。(東京市芝区愛宕下町4丁目5番地=現在地)  (「東京美術倶楽部の歴史」より)]

柳生宗矩
[柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和国柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。
大和国柳生の領主で、永禄8年(1565年)に上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家・柳生宗厳(石舟斎)の5男として生まれる。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)である。兄に厳勝、宗章らがいる。少年時代に太閤検地の際の隠田の露見によって父が失領したことで牢人となり、一時は豊臣秀吉北条攻めで陣借りをするなどして仕官の口を求めていたが、文禄3年(1594年)、徳川家康に招かれて無刀取りを披露した父の推挙により、200石で家康に仕えることとなった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の命を受け、筒井氏や大和の豪族と協力し、西軍の後方牽制によって功をたて、父の旧領の大和柳生庄2000石を取り戻すことに成功する。更に慶長6年(1601年)に後の2代将軍徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり同年9月11日に1000石加増、合わせて3000石の大身旗本となる。
元和7年(1621年)3月21日、後の3代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、剣術(新陰流)を伝授する。その後、将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)3月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。さらに寛永9年(1632年)10月3日には、3000石を加増された後、同年12月27日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)8月14日の4000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。さらに晩年に至って寛永17年(1640年)9月13日、500石の加増。続いて前年に亡くなった次男柳生友矩の遺領分2000石の加増もあり、所領は1万2500石に達した。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である。また、友人の沢庵宗彭を家光に推挙したのもこの頃(寛永期前半)のことである。  (wikipedia・柳生宗矩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図愛宕ノ下大名小路南端右の柳生但馬守が柳生藩柳生家上屋敷です。]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書(天保九年・1838年)」(絵図中央左、増上寺上に柳生但馬守と記述されています。)

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 八(天保九年・1838年)」(コマ番号56/144・当時之形の絵図左中、増上寺右に柳生但馬守が描かれています。)

カメラ北方向が柳生但馬守上屋敷跡に建つ東京美術倶楽部です。

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