江川太郎左衛門大小砲習練場

スポンサーリンク

マーカーは江川太郎左衛門并組与力同心屋敷・鉄砲調練所跡です。

江川太郎左衛門大小砲習練場跡
[『江戸切絵図芝口西久保愛宕下之図』で「江川太郎左衛門鉄砲調練所」と示される位置は、新銭座の慶應義塾の目と鼻の先であり、1870年(明治3年)に屋敷の長屋三十間ほどの総二階を慶應義塾に貸し出したことがある。これは「分塾」または「外塾」と呼ばれており、翌年には三田島原藩中屋敷に移転している。福澤諭吉の夫人の実弟土岐謙之助が江川太郎左衛門の門弟であったことなども挙げられるが、実は江川家の江戸屋敷が江戸幕府瓦解後、柏木忠俊の配慮で福沢諭吉に払い下げられて慶應義塾舎となり、正門は韮山に運んで今の表門となっている。  (wikipedia・江川太郎左衛門より)]

[新銭座町のさらに南には赤穂藩森家と新見藩関家の江戸屋敷があった。幕末に、森家の屋敷の一部が上地となり、その場所に関家の屋敷が移転した。また、関家の屋敷があった場所には江川太郎左衛門(江川英龍)という伊豆韮山(にらやま)の代官の屋敷と大砲や銃器などを扱う、現在の陸軍に当たる組織の練習場を造った。  (「公益財団法人 東日本鉄道文化財団」より)]

[安政3年(1856年)5月桑山家・藤掛家などの芝新銭座屋敷が召上げられ、1583坪の地所が江川太郎左衛門(江川英敏)屋敷並びに与力同心住居の地所、大小砲習練場として与えられた。前年に拝領した関家上屋敷地所のうち6634坪に続き拝領したものである(「藤岡屋日記」・屋敷渡預絵図証文・屋敷書抜)。  (「新銭座町 | 仲介手数料最大無料 | ジェイ・クオリス 港区賃貸」より)]

東京都立中央図書館 – 増補改正芝口南西久保愛宕下之図 」[絵図四つ切右下に江川太郎左衛門 鉄砲調練所が描かれています。]

[「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 『「八-[144]」の133/144、134/144』(絵図右下に江川太郎左衛門大小砲習練場と描かれている。)

カメラ東方向が江川太郎左衛門大小砲習練場跡で、カメラ西方向が慶応義塾の跡地で福沢・近藤両翁学塾跡碑があります。

カメラ東方向付近が江川太郎左衛門并組与力同心屋敷・鉄砲調練所跡です。

江川英龍
[江川 英龍(えがわ ひでたつ)は、江戸時代後期の幕臣伊豆国韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。
洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。
享和元年(1801年)5月13日、江川英毅の次男として韮山で生まれる。幼名は芳次郎。
江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄である。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆国韮山代官として天領の民政に従事した。英龍はその36代目の当主に当たる。父・英毅が長命だった為に英龍が代官職を継いだのは天保6年(1835年)、35歳の時とやや遅い。この間の英龍はやや悠々自適に過ごしていたようで、時に江戸に遊学して岡田十松に剣を学び、同門の斎藤弥九郎と親しくなり、彼と共に代官地の領内を行商人の姿で隠密に歩き回ったりしている(甲州微行)。正体を隠していたのは、甲斐国では天保7年(1836年)8月に甲斐一国規模となった天保騒動の影響や博徒(甲州博徒)が横行していた為だった。その後も弥九郎との関係は終生続いた。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られるが、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英龍の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。現在に至っても彼の地元・韮山では江川へ強い愛着を持っている事が伺われる。
江戸時代で最も文化が爛熟したといわれる文化年間以降、日本近海に外国船がしばしば現れ、ときには薪水を求める事態も起こっていた。江戸幕府異国船打払令を制定、基本的に日本近海から駆逐する方針を採っていたが天保8年(1837年)、モリソン号事件が発生。幕府は方針に従って打ち払った。英龍としても代官としての管轄区域には伊豆国・相模国沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持った。
こうした時期に川路聖謨羽倉簡堂の紹介で英龍は渡辺崋山高野長英尚歯会の人物を知る事になる。崋山らはモリソン号の船名から当該船は英国要人が乗っている船であるとの事実誤認を犯していたが、それだけに危機意識は一層高いものとなり、海防問題を改革する必要性を主張した。ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる和流砲術が古色蒼然として残るばかりであった。尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図り、英龍は彼らの中にあって積極的に知識の吸収を行った。そうした中で英龍と同様に自藩(三河国田原藩)に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。
しかし、幕府内の蘭学を嫌う目付鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とした。特に耀蔵からすれば過去に英龍と江戸湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中水野忠邦に叱責された事があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして彼のブレーンとなっていた崋山らが気に入らなかった。天保10年(1839年)、ついに鳥居は冤罪をでっち上げ、崋山・長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった(蛮社の獄)。しかし英龍は彼を高く評価する忠邦に庇われ、罪に落とされなかった。
その後、英龍は渡辺崋山らの遺志を継いで長崎へと赴いて高島秋帆に弟子入りし(同門に下曽根信敦)、近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。これが実現し、英龍は水野忠邦より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められる。以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育した。佐久間象山大鳥圭介橋本左内桂小五郎(後の木戸孝允)などが彼の門下で学んでいる。
水野忠邦、鳥居耀蔵が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、正弘の命で台場を築造した。同様に反射炉も作り、銃砲製作も行った。現在も韮山に反射炉跡が残っている。造船技術の向上にも力を注ぎ、更に当時日本に来航していたロシア帝国使節プチャーチン一行への対処の差配に加え、爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図したが、あまりの激務に体調を崩し、安政2年(1855年)1月16日に病死。享年55(満53歳没)。跡を継いだ長男・江川英敏文久3年(1863年)に農兵軍の編成に成功した。また、英敏の跡を継いだ江川英武(英龍の5男)は韮山県県令となった。  (wikipedia・江川英龍より)]

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*