浜田藩松平家上屋敷跡

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浜田藩松平家上屋敷
[天保7年(1836年)、上野国館林藩より第6代将軍・徳川家宣の弟・清武を祖とする越智松平家松平斉厚が6万1000石で入封した。第15代将軍・慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った第4代藩主・武聰は、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐のとき浜田口を担当し、長州藩側の大村益次郎が指揮する軍にことごとく撃破された。浜田の街に長州軍が入ったときには、武聰は戦わずして浜田城を放棄して松江城に逃れた。その後、武聰は美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えた。この際に、浜田の街は焼き払われ、浜田城も同時に灰燼に帰した。その後、浜田は長州藩が占領し続けた。  (wikipedia・浜田藩より)]

[「西久保城山土取場」は、上記の土取場とともに文献資料においてその名を見ることができる。『御府内備考 卷之八十四 飯倉之一』6)には、 土取場 葦手町の裏松平右近将監屋敷の間なり御砂取場と唱ふ (後略)との記述があり、文政年間頃の土取場の位置がここからは分かる。また、「西久保城山土取場」あるいは「土取場」という記載は、本遺跡周辺を描いた江戸図にも数多く見られる。絵図内においてこの記載があるのは、本遺跡の南西側を走る通りであるが、この通りに「土取場」の記載があるというのは、通りを挟んだ両側の地域が江戸時代に土取場として認識されていたからだと推測される。 (「江戸遺跡研究会会報 No.103 江戸遺跡研究会」より)]

[葺手町(ふきでちょう)
古くは幸橋御門外二葉町続にあった。1691(元禄4)年に御用地となり、西久保土取場を代地として与えられた。土取場とは、旧時、土木用の土砂を採取した所で、当町の裏手と松平将監屋敷の間の地であり、1826(文政9)年、将監の願い出により同人の預り地となった。  (「【芝①030】葺手町 | 江戸町巡り」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切左上に松平十郎磨上屋敷が描かれ、その葺手町下に土取バト云と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 1号」(コマ番号4/6・絵図四つ切右上、天徳寺下に松平右近将監と描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図中央右・西久保巴町、西久保葺手町に浜田藩松平家上屋敷がありました。)

カメラ北北東方向道路両サイドが浜田藩松平家上屋敷跡になります。

カメラ北西方向が芝愛宕下絵図で土取バト云と記述されている通りで、通り右が葺手町、その右側が浜田藩松平家上屋敷跡になります。