芝丸山古墳

マーカーは芝丸山古墳碑です。

芝丸山古墳
[芝丸山古墳(しばまるやまこふん)は、東京都港区芝公園にある前方後円墳
築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模である。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられている。
1892年(明治25年)、3年間の欧州留学を終えた自然人類学者坪井正五郎は日本へ帰国する船上、故郷の風景を思い浮かべていると芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じた。翌年の1893年(明治26年)に坪井が調査をしたところ埴輪や須恵器などの遺物を発見した。しかし遺構らしいものは確認できず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来である可能性も否定できなかった。
1979年(昭和54年)3月31日に東京都指定史跡に指定された。
全景(左が前方部、右が後円部)・wikipedia-photo、全景(左手前が前方部、右奥が後円部)・wikipedia-photo、後円部墳頂(削平)・wikipedia-photo、遠景(画像中央左下に位置。都心部の東京タワー近くにある。)・wikipedia-photo  (wikipedia・芝丸山古墳より)]

[東京都指定史跡
芝丸山古墳
所在地 港区芝公園四丁目 都立芝公園内
指  定 昭和54年3月31日
全長106メートル前後、 後円部径約64メートル、 前方部前端幅約40メートル、 くびれ部幅約22メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16メートルの台地端に位置し、前方部を南南西に向けている。
江戸時代以降、 原形はかなり損じられており、 とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。 明治31年に、 日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、 遺体や副葬品なども不明である。 なお、 埴輪を伴うことは知られている。
前方部が狭く低い形態や、占地状態などから五世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。
  平成二年十二月二七日   再建      東京都教育委員会]

芝丸山古墳 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向が芝丸山古墳で、カメラ方向に円山随身稲荷大明神があり、左方向が前方部で右方向が後円部になります。

カメラ南西方向に芝丸山古墳碑と案内板があり、カメラ方向が前方部になります。また、カメラ北方向に円山随身稲荷大明神があります。