芝大門

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芝大門
[1598年(慶長3年)に増上寺麹町より現在の芝の地に移転し、その門前となった当地域は商店が立ち並び、次第に賑わいを見せるようになる。江戸時代初期に当地域に芝片門前・芝中門前・芝三島町などの町名がつき、独立した門前町となり町奉行支配となる。
町名の芝大門は、1972年に当地域に住居表示が実施された際に新たに命名されたものである。当地域は増上寺の門前町として発展した場所であり、多くの狭小な町が混在しており中心となる大きな町が存在しなかった。そのため、当地域の俗称である大門(増上寺の大門に由来)を新町名に採用することになった。  (wikipedia・芝大門より)]

絵草紙屋が軒を連ねた芝大門から浜松町
[現在の芝大門から浜松町にかけては、多数の絵草紙屋が軒を連ねていました。このあたりは、江戸から東海道への出入り口として賑わった繁華街。増上寺芝神明への参詣客も多く、人々は娯楽品や土産ものとして、絵草紙や錦絵を買い求めたのです。
中でも芝神明三島町(芝大門一丁目)にあった和泉屋市兵衛は有力な版元の一つでした。もともと仏教や学術関連の書物を扱っていましたが、四代目和泉屋市兵衛は庶民向けの娯楽作品の出版に方向転換します。寛政6(1794)年、芝出身の絵師、初代歌川豊国(1769〜1825)を起用して「役者舞台之姿絵」という役者浮世絵シリーズを刊行。当時勝川派が確固たる主流をしめていた役者絵の世界に、無名の絵師を投入するのは四代目和泉屋市兵衛にとっても大きな賭けだったに違いありません。しかし豊国の役者絵シリーズは、東洲斎写楽の役者絵と江戸の人気を二分したとも言われるほどの大ベストセラーとなったのです。人気絵師として一世を風靡することとなった後も、豊国は四代目の恩を忘れることはなかったと言われています。
四代目はこの後も人気の戯作者や浮世絵師と組み、絵草紙、錦絵、豪華な色摺りの絵本など数々のヒット作品を生み出していきました。文政5(1822)年には、江戸随一の名亭と称された八百善(やおぜん)の料理を記した「江戸流行 料理通」を刊行、これらの料理本もベストセラーになりました。
和泉屋市兵衛の名は8代にわたって受け継がれ、明治には山中市兵衛の名で教科書や辞書を発行しました。  (「港区探訪 >第2回 いつの時代も、流行の最先端は港区から」より)]

和泉屋市兵衛
[和泉屋市兵衛は、現在の港区芝大門1丁目の芝神明宮(現・芝大神宮)のそばに店舗を構えていました。芝界隈は、神田日本橋に次いで多くの地本問屋が集まる地域でした。この界隈は、江戸の中心部に近く、東海道に近接するという地理的条件も手伝って、劇場や寄席、飲食店が立ち並ぶ江戸有数の盛り場でした。娯楽品や江戸土産として錦絵や草双紙を製造・販売するのにも好都合な場所だったのです。
4代目和泉屋市兵衛が頭角を現してくるのは、寛政年間(1789-1801)頃です。人気の作者と浮世絵師による草双紙、錦絵、色摺りの豪華な絵本などを刊行し、地本問屋として力をつけていきました。寛政6年(1794)正月、当時まだ新人の浮世絵師だった歌川豊国(初代:芝神明三島町出身)を起用して「役者舞台之姿絵」というシリーズものを版行。このシリーズは大当たりして、寛政8年頃まで続きました。初代豊国はこれが出世作となり、人気絵師として不動の地位を得て、晩年まで活躍。また門下から歌川国貞(三代豊国)や歌川国芳といった次代の主要な浮世絵師を輩出しました。  (「和泉屋市兵衛・4代目 – 港区立図書館」より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「錦絵そうし問屋・泉屋市兵衛」(6-76)

文政7年(1842年)発行の「江戸買物獨案内(えどかいものひとりあんない)」に芝明神前の下記の三つが広告を出しています。
江戸買物獨案内 上・下巻・飲食之部」・「尚古堂 岡田屋嘉七」(上巻 / 内容画像27)、「泉栄堂 和泉屋吉兵衛、小画堂 和泉屋新八」(上巻 / 内容画像30)

カメラ位置は大門交差点で、カメラ西方向が増上寺大門になります。

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