葵坂跡(玉川上水樋管)

マーカーは葵坂跡です。

葵坂
[赤坂溜池の北側へ上る坂、名称は江戸時代が植えられていたことによる。傍らには洗い堰があり、赤坂のどんどんと言われていた。  (「江戸切絵図散策」より)]

[歌川広重(初代)「名所江戸百景 虎ノ門外あふひ坂」 安政4年(1857年)11月(港郷土資料館蔵・画像リンク
画中左側が葵坂。中央の流れ落ちる水は通称「どんどん」と呼ばれていた洗堰(あらいぜき)です。画面左側の壁は松平肥前守(佐賀藩鍋島家)の屋敷です。そばの屋台が出る月夜の風景、手前の人物が持つ提灯には今もある金刀比羅神社「金比羅大権現」の文字が見えます。
虎ノ門病院から特許庁へ抜ける道のあたりに江戸時代、葵坂という名高い坂がありました。長さは24間(約40メートル)、幅は6間4尺(約12メートル)。松平肥前守(佐賀藩鍋島家)の屋敷とお堀を両側に控えて上り、坂の上はタチアオイの花が咲いていたことから「葵が岡」と呼ばれていました。坂の北側には溜池から流れ出る水の落ち口があり、どうどうと音をたてていたことから「どんどん」と呼ばれていました。溜池の埋め立て時、葵が岡の土が削られるとともに葵坂の姿は消え、現在は浮世絵にその面影をとどめています。
明治5年(1872年)、この一帯の武家地が合併され、葵坂にちなんで溜池葵町という町名が付けられました。町の東南辺をまわる坂は、江戸の町を見渡せたことから江戸見坂と呼ばれ、町の中央には、海が見えたことがその名の由来といわれる汐見坂が東西に通っていました。両坂は現在も残っています。  (「港区公式ホームページ/みなとアーカイブ 浮世絵でみる今昔06 虎ノ門」より)]

玉川上水樋管
玉川上水留. [79] 玉川上水葵坂通石樋并虎御門外通樋枡御普請一件 安政四巳年十二月より同五午年八月 分冊ノ一」(36~39・葵坂に玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [80] 玉川上水葵坂通石樋并虎御門外通樋枡御普請一件 安政四巳年十二月より同五午年八月 分冊ノ二」(98~100/149・葵坂に玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [29] 玉川上水虎御門外通入子樋枡御普請一件 弘化三午年閏五月 御普請方 分冊ノ二」(47/70・葵坂下で北、南方向の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [30] 玉川上水虎御門外通入子樋枡御普請一件 弘化三午年閏五月 御普請方 分冊ノ三」(22/70・葵坂下から虎ノ門前までの玉川上水樋管が描かれています。)

葵坂資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」(絵図右上・大溜右に葵坂が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図」(絵図左上・溜池右下に葵坂が描かれ、葵坂下に松平肥前守(佐賀藩鍋島家)中屋敷が描かれています。)

(名所江戸百景・ 「虎の門外あふひ坂」wikipedia-photo)

安藤広重 – 葵阪之図(「葵坂 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」より)]

諸国滝廻り(葛飾北斎) – 東都葵ケ岡の滝(とうとあおいがおかのたき)

カメラ位置は金刀比羅神社の南敷地界付近で、カメラ北西方向に葵坂があったようです。

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