赤穂藩森家上屋敷跡

マーカーは赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石と案内板です。

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP810・コマ番号449/553から赤穂藩屋敷の変遷について記載されています。P811・コマ番号449/553「上屋敷 芝神明海手」がこの地になります。

赤穂藩森家上屋敷跡
[「元禄赤穂事件」のあった元禄14年(1701年)に、代わって下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で入部する。しかし、5年後の宝永3年(1706年)には信濃国飯山藩へ転封となっている。
同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部、廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封した。森家の在封期間を通じて藩政は困窮しており、時代を追うごとに悪化の一途を辿った。第5代藩主・忠洪は財政改革を断行。藩主自ら質素倹約を行い、貯蓄を奨励した。更に塩田開発や蝋燭の原料となる櫨の植林等殖産興業にも努めた。しかし、財政の再建はままならなかった。第10代藩主・忠徳文化6年(1809年)、遂に塩を専売制とした。
幕末安政4年(1857年)になると、藩政の改革をめぐり保守派・革新派の対立が起こり藩内は分裂。革新派の一部は脱藩し長州藩へ奔った。文久2年(1862年)、攘夷派が保守派の家老を暗殺するという事件が起こり、藩論は分裂したまま明治維新を迎えることとなった。
1871年(明治4年)、廃藩置県により赤穂県となる。  (wikipedia・赤穂藩より)]

[赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石
プラザ神明のあるこの地は江戸時代、播磨(はりま)国(現、兵庫県)赤穂藩森家の上屋敷でした。
 北隣には旗本屋敷が構えられていましたが、赤穂藩はこの隣地の境に構築した境堀(さかいぼり)の護岸として石垣を設けました。また、江戸湾側にも石垣を組み、護岸としました。
 石垣に用いられた石材の大半は安山岩(あんざんがん)で、積み直しが確認されたところもありましたが、江戸時代の構築当初の姿をよく留めています。
 ここに用いられている石垣石は、主に境堀に使われていたものです。  (文責:港区教育委員会)
平成24年(2o12)7月  港区


  (「Google Map 画像リンク」より)]

[新銭座町のさらに南には赤穂藩森家と新見藩関家江戸屋敷があった。幕末に、森家の屋敷の一部が上地となり、その場所に関家の屋敷が移転した。また、関家の屋敷があった場所には江川太郎左衛門(江川英龍)という伊豆韮山(にらやま)の代官の屋敷と大砲や銃器などを扱う、現在の陸軍に当たる組織の練習場を造った。  (「公益財団法人 東日本鉄道文化財団」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図四つ切右下に森越中守(森忠徳)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書(天保九年・1838年)」[絵図四つ切右下に森信濃守(森忠徳)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 八」[コマ番号132/144・弘化二年、三年(1845、1846年)之形の絵図に森越中守、関但馬守、大久保加賀守、紀伊殿が描かれています。コマ番号133/144・安政三年(1856年)之形で関但馬守屋敷地が江川太郎左衛門大小砲習練場及び小笠原信濃守陣屋地となり、関但馬守は森越中守屋敷地の半地を拝領しています。]

カメラ北西方向が赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石と案内板になります。