赤羽

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赤羽
[江戸時代には「赤羽根」とも表記しました。この辺りは増上寺の西南に位置していて、画中では増上寺の五重塔とともに描かれることが多くありました。幕末には赤羽接遇所が置かれ、外国人の宿泊施設や幕府役人の詰所や警備の番所などがあったことでも知られています。アメリカ公使館の通訳だったヘンリー・ヒュースケンが暗殺されたのは、赤羽接遇所からアメリカ公使館のあった麻布善福寺へと戻る途中のことでした。  (「港区ゆかりの人物データベースサイト 赤羽」より)]

[江戸時代の芝浦
江戸時代の芝浦はどんな土地であったか、文献により振り返ってみましょう。『江戸名所図会』(斎藤幸雄・斎藤月岑編、天保5~7年板行・1834年~1836年)によると、当時の 芝浦を次のように活写しています。「月に、雪に、あるひは風に、浦曲の景色、天美なるか、地美なるか、人美なるか、まことに飽きもせぬながめなり。さてい つはなけれど、夏の納涼には、尤も適した地なれど、芝といふものの候夏ざしき 梅翁」とあります。句にある「夏ざしき」からも、芝浦に梅翁(連歌師・俳人西山宗因の号)の時代、つまり江戸時代前期にはすでに避暑の料亭が存在したのは明らかです。
芝海老など「芝肴」の宝庫
文政年間の記録『府内備考本芝一丁 目の書上』は、芝一帯の地誌として貴重な文献ですが、その一項に次の特産物をあげています。「~当浦にて魚漁之品左の通。冬春は、貝類、鰻、夏秋は、芝海 老、こち、黒鯛、ざこ」これらの海産物は、芝浦沿いの料理屋で獲れたてのものを調理し客に供したことから、江戸前の生きのよい肴を「芝肴」と称するように なりました。芝肴のうちでも「芝海老」は珍味の一つとされ、『拾遺続江戸砂子』にも「芝海老、芝浦の名産なり、云々」とあります。   (「芝浦商店会-芝浦の歴史」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「赤羽」(3-29)、「赤羽川、赤羽橋、芝浦解説・赤羽川、赤羽橋解説は右ページ、芝浦解説は左ページ中程から」(3-28)
赤羽(拡大図)

[赤羽心光院から芝浦を望む絵で、図会中央下に心光院、その上に赤羽橋、左に増上寺が描かれています。]

狂歌江都名所図会 – 赤羽橋(拡大図)

絵本江戸土産 – 赤羽根水天宮(拡大図)

絵本江戸土産 – 赤羽根(拡大図)

「東都名所」(芝赤羽橋之図赤羽根増上寺

カメラ東方向が芝浦方面で、カメラ北方向が東京タワーです。

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