遠山景元上屋敷跡

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遠山景元
[遠山 景元(とおやま かげもと)は、江戸時代旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物である。テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。幼名は通之進、通称は金四郎(きんしろう)。官位従五位下左衛門少尉。知行500石の明知遠山氏の分家の6代目にあたる人物である。父は長崎奉行を務めた遠山景晋、母は榊原忠寛の娘。父・景晋は永井家から遠山家に養子入りしたが、後に養父の実子遠山景善が生まれたため、景晋は景善を養子にしていた。景元出生時には未だ景善の養子手続きをしていなかったため、景元の出生届はその手続が終わった、誕生の翌年9月に提出された。文化6年(1809年)、父の通称であった金四郎に改める。青年期はこうした複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送るが、後に帰宅する。天保3年(1832年)に西丸小納戸頭取格に就任、同時に従五位下大隅守に叙任され、天保5年(1834年)に西丸小納戸頭取に昇進、翌天保6年(1835年)に小普請奉行に転任、天保7年(1836年)に官職を左衛門少尉(左衛門尉)に転じた。天保8年(1837年)に作事奉行、天保9年(1838年)に勘定奉行(公事方)、天保11年(1840年)には北町奉行に就く。天保12年(1841年)に始まった天保の改革の実施に当たっては、12月に町人達を奉行所に呼び出して分不相応の贅沢と奢侈の禁止を命令していて、風俗取締りの町触れを出したり、寄席の削減を一応実行しているなど方針の一部に賛成していた。しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対、南町奉行の矢部定謙と共に老中水野忠邦目付鳥居耀蔵と対立する。天保12年11月、水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して浅草猿若町への小屋移転だけに留めた。この景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味で、『遠山の金さん』ものを上演した。鳥居や水野との対立が「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図を作り上げたのである(ただし鳥居は、それ以前から江戸っ子からの評判が悪かった)。しかし天保14年(1843年)2月24日、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され、大目付になる。天保14年閏9月13日に水野が改革の失敗により罷免、鳥居は反対派に寝返って地位を保ったが、翌弘化元年6月21日に水野が復帰、水野の報復で鳥居が失脚し、水野の弟跡部良弼が後任の南町奉行となったが弘化2年(1845年)に小姓組番頭に異動、景元が南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは極めて異例のことである。嘉永5年(1852年)に隠居して家督を嫡男の遠山景纂に譲ると、剃髪して帰雲と号し、3年後に63歳で死去。戒名は帰雲院殿従五位下前金吾校尉松僲日亨大居士。墓所は東京都豊島区巣鴨の本妙寺_(豊島区)(江戸時代は文京区本郷にあった)。
「遠山景元・晩年の肖像画」・wikipedia-photo、遠山金四郎景元の墓(東京都豊島区巣鴨・本妙寺)・wikipedia-photo  (wikipedia-遠山景元より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図」[絵図愛宕ノ下大名小路と露月町の間遠山景元に遠山金四郎と記述されている。]

「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「八[144] – 56/144」(絵図中下程に遠山金四郎と描かれています。)

カメラ北北西方向の一画が遠山景元上屋敷跡です。

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