金杉橋

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マーカーは金杉橋です。

金杉橋
[旧東海道を渡した金杉橋は、古川の川幅拡張工事が行われた延宝3年(1675)に架けられ、江戸時代は流罪者を運ぶ遠島船の出た橋としても知られました。現在の橋は都電廃止後の昭和46年改架のものですが、屋形船や小さな漁船が両岸の川面をびっしりと埋める古川河口部の景観は、都電全盛の頃からさほど変っていないのではないでしょうか。江戸期の切絵図を見ると、東海道から少し東へ入ればすぐに海であり、明治期の中頃までは漁村の趣を残した街並みだったといわれます。(「第354回 【都電の残像編(8)】 金杉橋(かなすぎばし) 後編 」より)]

[江戸で遠島が申し渡されると、直ちに小伝間町牢屋敷に入れられる。 一般の牢舎ではなく遠島予定の者を収容する東口揚屋で流人船の出航を待つ。 流人船はそう頻繁に出るものでなく、伊豆諸島方面行きの罪人を年2,3回の船でまとめて移送するから、流人船が出航するまでの間、ここで待機させられる。流人には流刑先が出発前日まで知らされない。島送り船出航の前日に、囚人は獄庭に集められ、頭髪や髭を整えさせ、糺問所に土下座させる。 囚獄と奉行所から出張って来た与力とで、それぞれが送られる島名が宣告される。流人には紙2帖、船中の防備薬与えられるほか、島での当面の生活の資とするため、金が与えられる。揚座敷に拘禁されていた囚人には金3両、揚屋のものには金1両、が与えられ、百姓囚、平民は金2分、時服1着それに紙、薬が与えられた。
いよいよ出発の朝になると、永代橋の際または霊岸島(または芝金杉橋)から囚人護送用のはしけに乗せられて本船に移される。永代橋から出るのはいかなることがあっても戻って来ることができない囚人、霊岸島または金杉橋の方は、何年かの後には特赦になる可能性のある囚人と決まっていたようだ。
流人船といっても、実は伊豆七島を春・夏・秋と年三回巡廻する五百石積の交易船に便乗するのが普通であった。 船頭以下7,8人で運行されており、流人監視のための幕府船手組の水主同心2名が乗り込んだ。船内は座敷牢の形式になっており、武士階級と女は別囲、一般の罪人は雑居であった。  (「第 16 章 兄弟は遠島処分 – 仁杉八右衛門家」より)]

カメラ位置は金杉橋北詰です。

資料リンク
[名所江戸百景・ 金杉橋芝浦(現在の第一京浜と古川の交差地点)ファイル:100_views_edo_080.jpg]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図」(絵図右下に金杉橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図」、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝高輪辺絵図

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