マーカーは虎ノ門金刀比羅宮です。
関連リンク – 丸亀藩京極家中屋敷跡、京極稲荷神社(丸亀藩京極家下屋敷跡)、丸亀藩京極家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP735・コマ番号411/553から丸亀藩屋敷の変遷について記載されています。P736・コマ番号412/553「上屋敷 久保町」「同西屋敷 同所地続」がこの地になります。
丸亀藩京極家
[1587年(天正15年)讃岐国へ織田信長と豊臣秀吉の下で功のあった生駒親正が封じられたが、1640年(寛永17年)生駒騒動により生駒氏は改易され、1641年(寛永18年)山崎家治が肥後富岡より西讃に入封し、丸亀城を本城とし丸亀藩となる。生駒氏改易から山崎氏入封まで、讃岐は隣国伊予の西条藩・大洲藩・今治藩の分割統治となっていた。1658年(万治元年)山崎氏は3代で断絶し改易となり、代わって京極高和が播磨龍野藩より入封する。
丸亀藩は金刀比羅宮への参道である丸亀街道、多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした観光業は藩財政を大きく潤おしていた。
幕末になり財政が逼迫すると、江戸詰の藩士たちに隣に屋敷を構えていた大村藩の藩士たちからうちわの作り方を学ばせ、国元に返し内職で作らせ、金毘羅参りの土産物として売るなどの策をとり、財政を立て直した。その後、うちわづくりは一般町民にも広まり始め、丸亀の名物となる。 (wikipedia・丸亀藩より)]
虎ノ門金刀比羅宮
[金刀比羅宮(ことひらぐう)は、東京都港区虎ノ門一丁目にある神社。敷地内には、金刀比羅宮との複合施設として高層オフィスビルの虎ノ門琴平タワーがあり、社務所や神楽殿といった施設と一体化している。
歴史
●万治3年(1660年)、讃岐国丸亀藩の藩主京極高和が芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請。
●延宝7年(1679年)、丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座。
●平成13年(2001年)11月28日、東京都選定歴史的建造物に選定される。
●平成16年(2004年)11月30日、虎ノ門琴平タワーが竣工。
公道より虎ノ門金刀比羅宮一之鳥居を見る・wikipedia-photo
一之鳥居を潜り拝殿を見る・wikipedia-photo
鳥居と拝殿・wikipedia-photo
拝殿・wikipedia-photo
(wikipedia・金刀比羅宮_(東京都港区)より)]
[当宮は万治3年(1660年)に讃岐丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝7年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月10日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治2年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治22年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。 (虎ノ門 金刀比羅宮ホームページより)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図」(絵図左上に京極長門守その左にコンピラと描かれています。)
「国際日本文化研究センター – (内題)増補改正芝口南西久保愛宕下之圖、(題簽)芝愛宕下繪圖 全(万延2・1861年)」[絵図四つ切左上に京極佐渡守(京極朗徹)が描かれ、その左下にコンピラと記述されています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 八之二(天保九年・1838年)」[絵図左上に京極長門守(京極高朗)と描かれています。]
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国芝区南佐久間町及愛宕町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図中央上方向・琴平町の真田邸が丸亀藩京極家上屋敷跡で、その左に琴平神社が描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図右上端・琴平町の右下白地の2番地と、その左上金刀比羅神社の11・14番地が丸亀藩京極家上屋敷跡です。)
「虎ノ門金刀比羅神社 – Google Map 画像リンク」
虎ノ門金刀比羅宮表参道のカメラです。
カメラ南方向が虎ノ門金刀比羅宮裏参道です。
虎ノ門金刀比羅宮銅鳥居前のストリートビューで、カメラ南西方向が拝殿です。