高取藩植村家中屋敷跡

マーカーは高取藩植村家中屋敷跡です。

関連リンク – 高取藩植村家・小諸藩牧野家上屋敷跡(芝給水所・駐日オランダ王国大使館)高取藩植村家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP559・コマ番号323/553から高取藩屋敷の変遷について記載されています。P561・コマ番号324/553「中屋敷 愛宕下」がこの地になります。

植村家保
[植村 家保(うえむら いえやす / いえもり)は、天保8年(1837年)7月1日、近江膳所藩主・本多康禎の七男として生まれる。嘉永6年(1853年)に大和高取藩の第12代藩主・植村家興が急死したため、その末期養子となって家督を継いだ。
幕命により外国船到来に備えて、堺警備を担当する一方で、安政2年(1855年)に桜田門番・竹橋門番に任じられ、12月には御所造営の奉行を担当し、文久元年(1861年)には和田倉門番・馬場先門番に任じられるなど、諸役を歴任した。文久3年(1863年)には天誅組の変天誅組と戦い、勝利した。元治元年(1864年)2月、大坂加番に任じられる。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府に与して京都御所の警備を務めた。慶応4年(1868年)閏4月14日、養子の家壷に家督を譲って隠居する。  (wikipedia・植村家保より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 芝愛宕下絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央・米津越中守上屋敷下に植村駿河守(植村家貴)中屋敷が描かれています。)

高取藩植村家上屋敷は芝愛宕下切通(小諸藩牧野家上屋敷)にありましたが、その後常盤橋御門内の鯖江藩間部下総守上屋敷跡へ屋敷替えとなります。
東京都立図書館アーカイブ – 大名小路神田橋内内桜田之図(嘉永2[1849]/安政7[1860]改正刊)」(絵図四つ切右下・常盤橋御門左上方向に植村出羽守(植村家保)上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は愛宕警察署北交差点で、カメラ北北西方向が高取藩植村家中屋敷跡になります。