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河原道-2の行徳道側の道標「西一之江の河原道石造道標」は、今の松江道り、西一之江4丁目に面して建てられていたとされていますが、境川沿いの道も捨てがたく二つの入り口ルートを設定してみました。
「国立公文書館 デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図 – 葛西筋御場絵図」(絵図は東が上になっていますので、北を上にすると見やすくなります。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
旧水戸街道
[元々江戸時代に定められた水戸街道は日光街道の宿場町だった千住を基点にしている。千住5丁目付近には旧水戸街道の跡として出発地点に碑が建っていたが、現在は区の施設に保管され、新しい碑が代わりに建っている。
第二次世界大戦前の1930年に荒川放水路が完成したため、小菅までの旧道跡は消失している。
葛飾区側に入ってからは東京拘置所南の葛飾区小菅一丁目15番先から東に進み、綾瀬川を水戸橋で渡り、小菅三丁目交差点を通って堀切八丁目25番先で東北東から北東に進路を変え、西亀有二丁目22番先で常磐線に接する。
その後西亀有三丁目25番先で主要地方道になり、亀有駅の南(沿道に一里塚跡がある)を通過して環七通りと交差後、亀有二丁目から中川橋で中川をわたる。 (wikipedia・水戸街道より)]
[中世の葛飾の暮らしと交通 :陸上交通と葛西新宿の整備
16世紀半ばには、北条氏が上杉氏から葛西城を奪い取った後、葛西城を改修するとともに、古利根川を挟んだ対岸に宿場である葛西新宿を整備した。葛西新宿が史料に現れるのは永禄11(1568)年が最初であるが、その頃にはすでに整備されていたとみられる。天正10(1582)年の伝馬手形には、江戸から浅草・葛西新宿・臼井(千葉県佐倉市)までの交通が記されており、小田原から江戸を経由して下総の内陸部へと結ぶ北条氏の陸上交通拠点の1つとして葛西新宿が機能していたことがわかる。
また葛西新宿は、東西に街道、南北に河川が走って交差しており、陸上交通と河川交通の交わる交通拠点でもあった。北条氏に関する史料の中に、葛西と浅草に船橋を架けることを命じたものがある。船橋は葛西城と葛西新宿の間を流れる古利根川に架けられ、普段は陸上交通と渡河の便を図り、戦時には船橋を撤去して交通を断つつもりであったと考えられる。 (「葛飾区史|第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世) – 中世の葛飾の暮らしと交通 :陸上交通と葛西新宿の整備」より)]
佐倉街道
[東京都内については、水戸街道の新宿追分より南方に分岐して新金線・京成金町線・北総鉄道・柴又街道と順次交差し、リブレ京成新柴又店北側道路(Google Maps)を経て江戸川土手に至る。途中、桜道中学校や親水さくらかいどうなど街道にちなんだ名前の施設が点在する。 (wikipedia・佐倉街道より)]
[佐倉道は、佐倉の堀田氏をはじめとする房総の諸大名の参勤交代路であると同時に、江戸中期以降は庶民の往来でにぎわった道でもありました。
幕府も五街道に匹敵する街道として佐倉道を重要視していました。早くから小岩に関所がおかれたのもそのためです。
庶民の往来の代表的なものは、成田山への参詣でした。多くは江戸小網町から行徳船を利用したようですが、区内にも成田への道を示す道標があることから、陸路による参詣も盛んであったことがわかります。 (「江戸時代の道 – 江戸川区」より)]
元佐倉道(千葉街道)
[江戸時代のはじめ、両国から堅川の北岸を東にすすみ、逆井の渡しで中川(旧中川)をわたり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へむかう道がひらかれました。逆井の渡しから小岩井にいたる道筋は、船橋以東の東金街道の整備が慶長末年あたりとすれば、その前後あるいは両国橋が架けられた万治二年(1659)あたりまでのほぼ五〇年間に順次整備されたと考えられます。『水戸佐倉道分間延絵図』には、「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。『新編武蔵風土記稿』には、「元佐倉道とて本所堅川通り亀戸逆井渡を渉り、小松川村小名四ツ又と云処より両路に別れ、左して下総国市川村に達す」とあります。一般には「元佐倉道」とよばれ、明治八年(1875)に千葉街道と改称されました。八蔵橋以東は、明治初年に道幅をひろげています。荒川放水路・中川放水路(荒川・中川)の開さくによって、行徳道と交差する四ツ又(四股)とよばれたところが失われましたが、ここにあった道標(移設現存)には「両国・市川道」と刻まれています。大正九年(1920)に国道七号となり、大正一一年には小松川橋が架けられ、八蔵橋以西は経路が変わりました。昭和二七年(1952)に国道一四号に改められ、八蔵橋以西は旧千葉街道とよばれています。
江戸川区 (「元佐倉道(旧千葉街道) – Monumento(モニュメント)」より)]
[行徳道
中川(旧中川)の平井の渡しから四股(よつまた)で元佐倉道と交差し、東小松川村、西一之江村、東一之江村を経て今井の渡しに達する道筋を「行徳道」と呼んでいました。この道がいつ頃できたものかよくわかっていませんが、古くは行徳塩の輸送路のひとつではなかったかと考えられています。
庶民はこの道を成田参詣路に利用していたと思われます。今井橋の架橋が明治45年(1912)であるため、行徳道はそれまで渡しに頼っていました。当時はすでに逆井橋、平井橋、江戸川橋 (現市川橋 )がありましたから、この架橋によって区の交通網が飛躍的に充実したといえます。
岩槻道
戦国時代に岩槻(いわつき)への行徳塩陸送路としてひらかれたといわれています。河原の渡しから河岸を北上し、伊予田村、中小岩村の境を通って上小岩村に入り、柴又、金町を通って古利根川沿いに岩槻へ至る道です。江戸時代中期以降は、北小岩の慈恩寺道の道標や佐倉道御番所町にある道標などから、岩槻慈恩寺への参詣路としてもにぎわったことが知られています。
河原道
江戸川の対岸、下総国河原村へ渡る河原の渡しが下篠崎村にありました。区内にはこの河原の渡しへ至る道がいくつかありました。元佐倉道から松本村を通る道と、行徳道から西一之江、谷河内(やごうち)を通っていく道が代表的なものです。両道の分岐点にはそれぞれ河原道を示す道標がありました 。 (「江戸時代の道 – 江戸川区」より)]
[岩槻道はこの街道は、江戸時代初期に江戸川河口に位置していた行徳塩田を氾濫による洪水被害から守るため江戸川を広く開削し、その際に葛西側に築いた堤防線の上をほぼ通っている。 (wikipedia・篠崎街道より)]