葛飾北斎-東都名所一覧

葛飾北斎の隅田川両岸一覧を「ボストン美術館」及び「国立国会図書館デジタルコレクション – 東都名所一覧」よりダウンロードして利用しています。国立国会図書館の書誌の解題/抄録に
『葛飾北斎の挿絵による彩色摺り絵入狂歌本で、江戸の名所・風俗21図を春夏秋冬に従って排列し、狂歌を付したもの。当館本は、書き題箋の書名を採って「東都名所一覧」となっているが、刊記に須原屋茂兵衛、須原屋伊八、蔦屋重三郎の3書肆名が連記されていることから、蔦屋単独での本書刊行後に、この3書肆によって「東都勝景一覧」と改題・再刊されたものであることが分かる。巻頭にある「大総/貸本」の朱印記は、名古屋の貸本屋大野屋惣八の蔵書印である。』とあります。(出版年月日-寛政12(1800)刊)

品川(ボストン美術館・拡大画像リンク)
[初春の品川の景色・茶店の主人が盛装して客に挨拶、店前では子供が凧あげをしようとしている。右側岸辺は大森の海岸。]

梅屋敷(ボストン美術館・拡大画像リンク)
[東都名所一覧の出版が寛政12(1800)年ですので、梅屋敷は亀戸梅屋敷と思います。新梅屋敷(向島百花園)の開設は文化2年(1805年)。蒲田の梅園(聖跡蒲田梅屋敷公園)の開設は文政年間(1818年から1830年)の初め。]

三囲(ボストン美術館・拡大画像リンク)
[降雪のなか隅田川堤を歩む男女、その右下に有名な「堤下の大鳥居」が描かれています。浅草側から眺めると隅田堤に遮られて上部までしか見えない鳥居は、三囲(みめぐり)神社として江戸の人々に親しまれていました。  (「隅田川いろいろ – Biglobe」より)]

王子(ボストン美術館・拡大画像リンク)
[描かれている場所は西ヶ原一里塚付近かと思います。描かれる標柱に「西ヶ原」「左 おうじみち」と記され、奥に飛鳥山が描かれています。画に描かれる人々は王子稲荷の参詣帰りと思われます、旅行時の護身用の帯刀をした二人の人物が参詣の土産を持ち、その右の男の頭の上に参拝土産の暫狐(しばらくぎつね)が描かれています。江戸の名所・王子(93p-96pに「暫狐」について詳細に記述されています。]
[王子稲荷神社の特徴的な祭礼としては、元旦に催される王子狐の行列と、2月の午の日に催される初午祭・二ノ午祭(・三ノ午祭)がある。後者では縁起物として凧が売られるため、一般には凧市の名で知られる。  (「王子稲荷神社 凧市 – 東京都北区 – 2月の午の日 – 伝統の日本紀行」より)]

飛鳥山(ボストン美術館・拡大画像リンク)
[八代将軍・徳川吉宗は1737(元文2)年に「王子権現」へ「飛鳥山」を寄進し、桜を植樹。その後、江戸庶民の行楽地として開放し、桜の名所となった。図は江戸後期の1800(寛政12)年頃、葛飾北斎が『東都名所一覧 乾』で描いた「飛鳥山」。図中央には1737(元文2)年に吉宗の功績を顕彰するために建てられた「飛鳥山碑」が見える。  (「1:江戸期からの行楽地 「飛鳥山」と「滝野川」 ~ 王子」より)]

日本橋(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[日本橋から江戸橋方向の画、左に魚河岸が描かれています。]

亀戸天神(ボストン美術館・拡大画像リンク)
[亀戸天神藤棚前の庭手入れの様子。]

隅田川(ボストン美術館・拡大画像リンク)
[山谷堀の南側の江戸市中側には日本堤と呼ばれる土手がありました。この土手は洪水を防ぐ堤防として江戸時代はじめに築かれました。この土手が吉原まで約八丁あったため、俗に土手八丁と呼ばれました。
 山谷堀がもっともにぎわったのは、江戸時代です。江戸時代に吉原へ行く手段としては、主に4つのルートがありました。まず、浅草寺の東側の馬道を行くルート、浅草寺の西側の田圃の中を行くルート、そして逆に箕輪から日本堤へ出るルート、この3つは徒歩や駕籠で吉原に行くルートです。この徒歩や駕籠を使う方法以外に、柳橋(神田川が隅田川と合流する付近)辺りの船宿から、猪牙船という小型の船を仕立てて、隅田川伝いに山谷掘経由で行くルートが4番目のルートです。
 船で吉原に行く人のため、山谷堀には船宿がたくさんできて繁盛しました。船を使う方法は贅沢でしたので、お金持ちが利用して、多くの人々は、徒歩で向かったようです。とはいっても、船を使う人もかなりいたようです。次のような川柳が残されています。
  今戸橋  上より下を 人通る  (「山谷堀・竹屋の渡し跡(浅草界隈8 大江戸散歩)」より]

両国(ボストン美術館・拡大画像リンク)
[両国橋の真下、橋脚の間の画、猪牙船、屋形のある猪牙船、菱垣廻船が行き来し、橋脚下部が補強されている様子がわかる。]

山王祭(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[浦島太郎・朝鮮通信使の附祭。
同じ附祭で演じられ、異界イメージの連鎖となっています。鎖国下の江戸では、朝鮮通信使などの外交使節団の行列をあたかも祭り気分で見物することがありました。山王祭神田祭の附祭(各地の都市祭礼でも)仮装や作り物・歌舞音曲によって異国・異人・異界を造形し表現することが流行りました。  (「神田祭・山王祭 – WAKWAK」より)]

湯島天神(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[湯島天神男坂からの画になります。]

不忍池(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[蓮飯に使用する、ハスの葉の採取状況の画です。]
[不忍池にはが多く、夏の花の咲く頃は紅白咲き乱れて蓮見の客で賑わい、茶屋では蓮飯を出していました。
 蓮飯を江戸時代の文献で探してみると、『本朝食鑑』(1697)に荷葉飯(はすのはめし)があり、新しい荷葉に飯を包みよく蒸して食べるものとしています。料理書では『黒白精味集』(1746)に蓮飯として「蓮の巻葉を随分こまかにきざみ、菜飯のごとく塩少し入れ飯をたき、蓮の葉の大きなるへ釜より直にうつし包み、暫く置て出す也。よき飯也」とあります。
 『料理伊名波包丁』(1773)の蓮飯は「蓮の葉をよくよく洗ひて米の上へ覆て蒸すべし。飯出来て後またほかの蓮の葉に移して暫く包み置べし」とあり、もう一つ蓮葉飯として『黒白精味集』と同様のものがあります。また『料理調法集』(1857)には「蓮葉をせんじ、その汁にてたく也」という蓮飯があり、多様な蓮飯があったようです。
 監修・著 松下幸子千葉大学名誉教授  (「江戸の美味探訪- no.167「不忍池と蓮飯」 – 歌舞伎座楽市」より)]

新吉原 八朔(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[八朔の日は新吉原でも、遊女たちが白無垢の小袖を着て仲之町を道中する習わしがあった。この習わしは、元禄期(1688-1704)の名妓・高橋という人物が、八朔の紋日(もんび=遊廓で定められた特別の日で、この日遊女は仕事を休んではいけなかった)に訪れた馴染み客に逢うため、病床から這い出て白無垢姿のまま揚屋入りしたという逸話に基づいているとされる。
『吉原年中行事』には、「まことに季花の雨をふくめる風情して、ことにきよらなりければ、その日入つどいたる万客、高橋がすがたを感嘆せざるはなし」と記されている。
 病床の白無垢をまとった遊女の投げかけた鮮烈な印象が、新吉原に八朔白小袖の習わしを生むもとになったという。  (「歳時記 旧八朔(はっさく)…大名から遊女まで『白』を着る日」より)]

芝神明(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[飯倉神明宮(芝神明)社伝によれば、寛弘2(1005)年鎮座。もとは赤羽橋の近く、小山神明という所にあったが、慶長3(1598)年増上寺が当該地を含む敷地に移転してくる関係で、現在の地に移動。徳川幕府の保護を受け、境内や門前には、茶屋、芝居小屋等が並び、相撲や富くじの興業も行われ、賑わいをみせた。また、9月11日から21日までの祭礼は、生姜市が立ち、土生姜が売られたことから「生姜祭」、また、期間が11日間にもわたることから「だらだら祭」とも呼ばれた。祭礼では縁起物として、赤飯など食べ物が入った千木ちぎ箱(杉を薄く削いで楕円に曲げ、赤・緑・青で模様を描いた小櫃)が売られた。  (「芝大神宮 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」より)]

深川八幡祭礼(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[赤坂にある日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つである富岡八幡宮の例祭、別名「深川八幡祭り」。
1642(寛永19)年、徳川家綱の成長を祈念して実施されたことが始まりである例大祭。1643(寛永20)年より神輿渡御が始まりましたが、当時は八幡宮の神輿と氏子の山車が町内を練り歩いていました。現在では三年に一度の本大祭の際に八幡宮の神様が乗られた御鳳輦が渡御し、そのお礼として町内の神輿渡御が行われています。担ぎ手へのお浄めとして水をかける「水かけ祭り」としても知られています。  (「江戸三大祭の一つ「富岡八幡宮 例大祭」の魅力 – 江東区」より)]

目黒(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[瀧泉寺(目黒不動尊)参道男坂前の画で、右に女坂が描かれています。]

堀之内 雑司谷 会式詣(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[堀之内は杉並区の日円山妙法寺、雑司谷は威光山法明寺の日蓮宗の寺院で、 日蓮宗のお会式は、日蓮門下の諸派で日蓮の命日の10月13日等にあわせて行われる法要です。]

愛宕山(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[愛宕山・愛宕神社参道の画で、左ページが男坂(出世の石段)、右のページが女坂になります。]

境町(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[中橋南地の中村座称宜町に移された翌年、寛永10年正月には、堺町に都伝内(みやこ でんない)の櫓が許され、翌11年3月には、泉州から江戸に下った村山又三郎が、堺町に村山座を興した。これが後の市村座である。慶安4年(1651年)に至って称宜町にあった芝居小屋はことごとく堺町に移された。当時の堺町は、上下両町に分かれており、村山座も猿若座も上堺町に開場して、上堺町ばかりが繁栄するので、名主近藤喜兵衛は上下堺町の繁栄を平均させようとして、町奉行所に願い出て許可をえ、抽選の結果、猿若座は再度移転して、下堺町に開場することになった。上堺町は、明暦の大火後地割改正で葺屋町と改称し、下堺町はたんに堺町と呼ばれることになった。この地はその後200年ほど劇場街で『寛天見聞記』によるとずい分賑っていたことが知れる。
しかるに、天保の改革(1830年 – 1843年)に際して市中風俗取締りのためとあって、葺屋町堺町両狂言座、操芝居そのほか芝居関係に携っていた町屋の分も残らず、浅草聖天に近い小出伊勢守下屋敷跡へ移転(1841年)を命ぜられた。  (「中央区立図書館 – 2.中央区と演劇 安藤菊二(PDFファイル:947.00 KB)」より)]

神田明神(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[神田明神男坂上の袴着の祝いの画です。]
[袴着(はかまぎ)もしくは着袴(ちゃっこ)は、幼児の成長を祝い、初めて袴を着せる儀式である。平安時代貴族の間で行われた。時代を経てのちに武家、さらに庶民の間にも行われるようになった。古くは男女の別なく3 – 7歳の間に行い、江戸時代以降5歳男児のみの風習となり、時期は次第に11月15日に定着、七五三の風習の一環となった。  (wikipedia・袴着より)]

浅草年市(国立国会図書館・拡大画像リンク)
[毎年、12月の17日、18日、19日の3日間、台東区浅草寺(観音様)の境内で羽子板市が開かれます。「市」とは、神社仏閣の縁の日、参詣人の集まる日に、近郷在住の人々が日常生活用品を商うために「市」が立ち、「歳の市」とはその歳の最後の市です。江戸の歳の市は浅草が最も古く、万治元年(1659年)両国橋が架けられた頃と言われています。浅草の歳の市は、日常生活用品の他に新年を迎える正月用品が主になり、それに羽子板が加わり華やかさが人目をひくようになりました。その華やかさから押し絵羽子板が「市」の主要な商品となり、いつしか市が「羽子板市」といわれるようになり「人より始まり人に終わる」と言われるほどの賑わいとなりました。  (「歳の市(納めの観音)羽子板市」より)]