「葛飾北斎-画本東都遊・下.pdf」リンク
小町桜(拡大画像リンク)
日暮里(拡大画像リンク)
[場所は道灌山になります。地名の由来については、太田道灌の出城があったためとも、谷中の感応寺(現天王寺)の開基、関道観の居所であったためとも言う。山手台地の最高地点にあり眺望が良い。江戸時代には虫聴きの名所として知られ、秋になると文人たちが訪れ、月を見ながら松虫や鈴虫の音に聴き入った。付近の浄光寺、本行寺、青雲寺は、文人趣味でそれぞれ雪見寺、月見寺、花見寺と呼ばれた。 (「道灌山 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」より)]
上野(拡大画像リンク)
[清水観音堂から不忍弁天を望む画になります。清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7(1694)年9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。 (「清水観音堂の歴史 – 寛永寺」より)]
佃住吉社(拡大画像リンク)
[神功皇后三韓征伐の際、住吉三神の御守護により無事達成され、その帰途、摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)にて、住吉三神を遥拝なさいました。これが大阪佃の住吉の社(現 田蓑神社)の起こりです。
その後、天正年間より大阪田蓑島の人々と徳川家康公とが深い関わりを持つようになり、家康公の漁業の傍ら田も作れとの命により、村名を田蓑から佃へと改め、また田蓑の名を残すため神社名を住吉神社から田蓑神社へと改めることとなりました。
その後、家康公が関東下降の際、摂津国佃の漁夫33人と住吉の社の神職平岡権大夫好次が分神霊を奉載し江戸へ下り、寛永年間に幕府より鐵砲洲向かいの干潟を賜り築島しました。そして故郷の名をとり佃島とし、この地に社地を定め、正保3年(1646)6月29日 住吉三神、神功皇后、徳川家康の御神霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起源です。
佃島は江戸湊の入口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。 (「由緒 – 住吉神社オフィシャルサイト」より)]
佃 白魚網(拡大画像リンク)
[佃村・大和田村の漁師たちが家康献上のために用意した御菜魚(魚介類)は、白魚でした。家康は、殊の外、白魚が好物だったということです。白魚は、体長約10センチメートルほどの魚で、シラスとは異なる、サケ目シラウオ科の無色半透明の硬骨魚です。かつては淡水の混じる江戸内湾域に数多く生息していたとのことです。白魚は透き通って見えるために、脳の形が三葉葵(徳川家の家紋)に見立てられ、徳川家では大変珍重されたということです。
漁法は、通常用いる四つ手網(十字に組んだ竹で張り上げた方形の浅い袋状の網)とは異なり、御膳白魚漁に限って建網(水中に袖網を敷設し、魚群を袋網に導く定置網)で捕獲されました。
佃島漁師の漁場は、中川・江戸川河口付近(後に千住大橋から上流の豊島村までの間)と定められ、これとは別に、浅草川から江戸湾周辺に漁場をもって御膳白魚漁を行う小網町の白魚役漁師も存在しました。このため、御用漁をはじめとする漁場紛争がたびたび起こりましたが、家康のお墨付と称される「御免書」を理由に、佃島漁師は常に有利な立場に立ち得ました。 (「佃島の歴史3〜家康の好物「白魚」」より)]
品川汐干(拡大画像リンク)
[花見の頃(3月下旬から4月上旬にかけて)の大潮のときには、高輪から品川沖にかけて海上は干潟になり、蠣(カキ)や蛤(ハマグリ)をひろい、砂の中のヒラメを踏み、汐の残る窪みに取り残された小魚をすくって宴を催す潮干狩客で賑わいました。当時の川柳に「旅立ちを 送ったあとで 汐干狩」とあり、品川での潮干狩りの賑わいの様子を言いあらわしています。 (「東海道品川宿のはなし 第19回」より)]
浅草祭(拡大画像リンク)
[浅草花川戸町から舟渡御の隅田川が描かれています。]
[現在、5月に行われている浅草神社の祭礼・三社祭(浅草祭)ですが、江戸時代は3月17日、18日の両日に行われ、丑・卯・巳・未・酉・亥年の1年おきに本祭が行われました。
浅草神社は「三社様」とも呼ばれますが、三人の神様をお祀りしていることに由来します。そのため祭礼も三社祭という呼称が一般化していますが、江戸時代は本祭前夜に神輿を観音本堂の外に安置するなど、浅草寺と浅草神社が一体となったお祭りで、観音祭とも、浅草祭とも呼ばれていました。
氏子は観音様の縁日にちなみ十八ヶ町。このうち材木・花川戸・聖天を宮元三ヶ町と呼び、すべてを総称して浅草郷、もしくは千束郷(せんぞくごう)とも言いました。祭礼は現在のような神輿(みこし)かつぎが中心ではなく山車(だし)が中心で、十八ヶ町のほか蔵前筋や浅草橋の各町も山車を繰り出し、行列の勢いと絢爛さを競いあったようです。 (「『画本東都遊』より「浅草祭」(えほんあずまあそび …」より)]
新吉原(拡大画像リンク)
[浅草北部にあった遊郭。当初、日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東側に開設したが、明暦2(1656)年に移転を命じられ、翌年の明暦の大火の後、浅草千束村へ移った。以前を元吉原、以後を新吉原と呼ぶ。最盛期には3,000人の遊女を抱えていた。日本堤から衣紋坂を通り、堤から遊郭が見えないように曲がった五十間道を経て、大門をくぐって入る。日本堤から衣紋坂へと曲がる東角に柳があり、客が振りかえって名残を惜しむ位置にあるために「見返り柳」と呼ばれる。周囲には「御歯黒溝おはぐろどぶ」と呼ぶ堀をめぐらし、出入り口は大門一か所として、遊女の脱走を防いだ。中央の大通り「仲之町」には、春には桜を、秋には紅葉を移植するなど、人工的な楽園を演出した。 (「新吉原 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」より)]
浅草 蓑市(拡大画像リンク)
[江戸時代に浅草寺雷門の前で開かれていた蓑や笠の市。三社祭の翌日の3月19日(祭礼のない年は18日)および年の市の翌日の12月19日に開かれ,明治初年ころまで続いていた。蓑市では,近郷の農民が出て,蓑だけでなく臼杵も売ったという。 (「蓑市とは – コトバンク」より)]
鎧 匠(拡大画像リンク)
[甲冑制作を生業とする人々のことを、甲冑師と呼びます。しかし、この甲冑師という呼称は、江戸時代の文献に現れる呼び名で、古来より甲冑制作者の呼称は様々でした。
古い書物では「続日本記」で「甲作」・「鎧匠」とされ、室町時代の「七十一番職人尽歌合絵」では「よろひさいく」(鎧細工)と表記されています。呼称も様々ですが、1領の甲冑(鎧兜)の制作者達や、具体的な制作方法や工程は、古墳時代から平安時代初期へと至るまで、朝廷や寺社の記録にわずか残るのみで、体系的な記録や史料はほとんど見つかっていません。
現在、甲冑師の主な流派として知られているのは「春田派」・「明珍派」(みょうちんは)・「早乙女派」(さおとめは)・「岩井派」・「雪下派」(ゆきのしたは)です。
これら5派は「御家流」と称され、江戸時代に「徳川家康」をはじめとした大名らに召し抱えられ、「御抱具足師」(おかかえぐそくし)となっています。そうして仕えた藩主の好みや、地方的特色を取り入れながら甲冑(鎧兜)の制作は代々受け継がれていきました。 (「有名な甲冑師と流派 – 名古屋刀剣ワールド」より)]
[現在、甲冑師で人間国宝になった人物として、牧田三郎(東京都)がいる。 (wikipedia・甲冑師より)]
[3日付(2023年11月)で発令の令和5年秋の叙勲で、東京都内からは432人が選ばれた。それぞれの分野で顕著な功績を挙げた人をたたえる旭日章が74人、長年公務などに力を尽くした人に贈られる瑞宝章が358人。このうち、旭日双光章を受章した北区の選定保存技術「甲冑修理」保持者、小澤正実さん(70)=北区=に喜びの声を聞いた。
幼いころ、端午の節句で飾られる勇ましい五月人形に心をときめかせたのが、原点だった。小学生高学年から中学生にかけて、NHKの大河ドラマでは、豊臣秀吉を描いた「太閤記」などの歴史作品が放送され「その時代ごとの甲冑の変化に、夢中になった」という。
「甲冑に関わる仕事をしてはどうか」。高校2年になると、一つの世界に並々ならぬ関心を示すことを知った進路指導教諭からアドバイスされた。そういわれ、東京国立博物館に問い合わせると当時、館内の文化財修理室で作業に携わる認定保存技術保持者の牧田三郎氏を紹介される。神奈川県寒川町にあった自宅から電車を乗り継ぎ、片道2時間以上かけて牧田氏のもとに通い始め、高校卒業後に本格的に弟子入りした。
昭和59年の牧田氏の引退を機に修理室を継承。高校時代から数えると五十余年を、博物館の一角にあるこの部屋で過ごしてきた。うるし塗りや皮革、金工、染色など、甲冑に関わる仕事を全て一人でこなす。
徳川家康、黒田長政、前田利家…。自身が手がけた甲冑の持ち主には、歴史上のそうそうたる人物の名が挙がる。思い出に触れながら「多くの文化財に関わることができて、自分は幸せ。本当に満足している」と表情を崩した。 (「秋の叙勲、甲冑修理技術者の小澤正実さん(70)に旭日双光 …」より。)]