葛飾北斎-画本東都遊・中

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浅草海苔(拡大画像リンク)
[画左下看板に「浅草田原町三丁目 御膳御海苔所 中嶌屋平右衛門製」と記されています。明治の「新撰東署所園會論」(P11)に「中島屋平左衛門 浅草 田原町三丁目に昔時御膳海苔を響ける中島屋平左衛門といへるものあり。その店の廣告文をば当時の小説家たる柳亭種彦の筆しものあり。」と記述され、実在した店であることがわかります。]
[浅草海苔 (あさくさのり) の名は、寛永15年(1638年)の『毛吹草』が初出であり、諸国の名産が列記されている中に「武蔵国 品川海苔」と共に、「下総国 葛西海苔 是ヲ浅草苔トモ云」と記されている。また元禄10年 (1697年) の『本朝食鑑』では「この苔はもともと総州葛西の海中に多く生じ、土地の人が採って浅草村の市に伝送したものである。葛西の土地の人もやはり多くこれを販売している。步州の品川にもある。」とあり、享保17年 (1732年) の『江戸砂子』では「浅草海苔 当所の名物 むかしは此近き辺まで入江なりしと也。今は品川苔を当所にて製す」とある。これらの記述は、葛西や品川などで採取されたアマノリが浅草に運ばれて加工され、浅草海苔として売られたり食事に出されていたことを示している。浅草で製造または販売されていたため「浅草海苔」の名が付いたと考えられることが多いが、『江戸砂子』にあるように古くは浅草でも採取されていたため「浅草海苔」の名が付いたとする説もある。  (wikipedia・アサクサノリより)]

王子稲荷社(拡大画像リンク)
[「王子稲荷神社」は、創建は不詳ながら、平安中期源義家が「関東稲荷総司」として崇拝したともいわれる古社。古くは「岸稲荷」、江戸期には「王子稲荷大明神宮」などと呼ばれた。1634(寛永11)年には、三代将軍・徳川家光により社殿が造営された(「王子権現社」と同時)。現在の社殿は1822(文政5)年に建てられたもの。江戸期以降は、江戸町民の崇敬も集めた。  (「1:江戸期からの行楽地 「飛鳥山」と「滝野川」 ~ 王子」より)]

王子海老屋(拡大画像リンク)
[行楽地となった「飛鳥山」「石神井川」(「滝野川」)一帯は、江戸後期になると料理屋も発展し、なかでも「海老屋」「扇屋」は当時の江戸の料理屋番付で上位に入る有名店であった。写真(画像リンク)は明治初期の撮影で、中央が「石神井川」、右の建物が「扇屋」で、対岸(写真左手)には「扇屋」の庭園が広がっていた。「海老屋」は、「扇屋」の隣、写真では奥側にあった(この写真では見えない)。  (「1:江戸期からの行楽地 「飛鳥山」と「滝野川」 ~ 王子 」より)]

駿河町越後屋(拡大画像リンク)
[駿河町の町名の由来は江戸城の向こうに駿河の富士山を望むことから。ここからの富士山の眺望は江戸一と言われていた。現金掛け値なしの商売で知られる、呉服屋の三井越後屋(後の三越)があった。  (「駿河町 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」より)]

十軒店雛市(拡大画像リンク)
[十軒店(じっけんだな)では春の雛祭りの前には雛市(ひないち)が、初夏の端午の節句の前には五月人形の市が立ち、大変な賑わいを見せていました。雛市は尾張町(おわりちょう)、浅草、池之端(いけのはた)、麹町(こうじまち)、駒込などにもありましたが、十軒店には及ばなかった、と『江戸名所図会』(「十軒店解説・右ページ中程」(1-41))に書かれています。現在の日本橋室町(にほんばしむろまち)3丁目あたりの中央通りの両側にあった町です。  (「『江戸名所図会 1巻』より「十軒店雛市(じっけんだなひな …」より)]

長崎屋・元結匠(拡大画像リンク)
[日本橋本石町長崎屋-製作・刊行年等:寛政11年 ; 材質:紙本版多色刷 ; 大きさ:22×15.2(版本26.8×18) ; 解説文:「画本東遊」に、北斎の描く江戸の名勝画をのせているうちの一つ。長崎より江戸の将軍に拝礼するオランダ使節の定宿。江戸庶民の好奇心を知るに足る。 (「葛飾北斎 日本橋本石町長崎屋 – 早稲田大学」より)
元結匠-「元結(もとゆい、もっとい)」とは、髷(まげ)の根を結い束ねる紐のことで、「文七元結」は江戸時代中期に考案された、実在する元結である。長くしつらえた紙縒(こより)に布海苔と胡粉を練り合わせた接着剤を数回にわたって塗布し、乾燥させたうえで米の糊を塗って仕上げた元結が「文七元結」であり、「しごき元結」「水引元結」とも称した。「文七元結」の名称は、桜井文七(後述)という人物の考案とも、下野国(栃木県)産の文七紙を材料として用いるからともいわれている。  (wikipedia・文七元結より)]

三囲神社(拡大画像リンク)
[三囲神社の社名は、文和年間(1352〜1356)近江国三井寺の僧が巡礼中に当地で荒れた祠を見つけ、修復しようとしたところ、地中から壺に収められた白狐にまたがる神像を得ました。すると何処からともなく白狐が現れ、この神像の回りを三度回って消えたという故事に由来します。俳人宝井其角「雨乞いの句碑」は有名で、元禄6年(1693)の江戸のかんばつの際には、俳人宝井其角が句を詠み奉納すると翌日大雨が降り、人々を救ったと伝えられます。  (「すみだスポット – 三囲神社 | 一般社団法人 墨田区観光協会」より)]

今戸里(拡大画像リンク)
[今戸は隅田川の西岸で、都鳥の名所でした。『江戸名所図会』に、「今戸には、土をこね、瓦造りならべてほしければ やかぬまは露やいとはむ下瓦 杉風」(17-46)とあるように、瓦焼きは今戸の名物になっていました。  (「今戸瓦焼図 文化遺産オンライン」より)]

絵草紙店(拡大画像リンク)
[蔦屋耕書堂という絵草紙屋の店先を描いた絵です。店の入り口には蔦屋重三郎の名前入りの看板が立ち、山東京伝の著作や狂歌本の宣伝が並び、店の奥には錦絵が置かれ、旅支度の武士が選んでいる姿が描かれています。
 『画本東都遊』に収載されている絵はもともと寛政11年(1799)、蔦屋重三郎から刊行された『東遊』という狂歌本に墨絵で描かれていた挿絵です。この本の画家葛飾北斎は浮世絵師として有名ですが、蔦屋から何冊もの狂歌絵本を刊行していました。狂歌本の中から絵の部分だけを抜き出し、彩色摺りにして刊行したものが『画本東都遊』です。  (「『画本東都遊』より「絵草紙店」(えほんあずまあそび え ..」より)]

    「葛飾北斎-画本東都遊・上」  「葛飾北斎-画本東都遊・下