葛飾北斎-隅田川両岸一覧

葛飾北斎の隅田川両岸一覧を「国立国会図書館デジタルコレクション – 隅田川両岸一覧」よりダウンロードして利用しています。この書誌の解題/抄録に
『葛飾北斎画、江戸名所狂歌絵本。大本3巻合1冊。鶴屋喜右衛門刊。色摺り。刊記丁を欠くが、絵師は、壺十楼成安の序中に「北斎ぬし」とあり、板元も序に「仙鶴堂のあるし」とある。高輪から筑地、柳橋、広小路、両国、新柳橋、首尾の松、榧寺、駒形、大川橋、浅草寺、向島、待乳山、今戸、橋場、真崎、山谷、吉原まで、隅田川の河口から遡り、最後は新吉原に至る。すべて西岸を基点として、東岸を向こう岸に眺めやる構図の連続。絵巻物を冊子化したような造りで、鶴岡蘆水画の板彩画巻『(隅田川)両岸一覧』に基づくとされる。図ごとに両岸の地名と景物を小見出しにする。絵の成立及び主板の刻彫は、諸説あるが、上巻最終の両国広小路図に「大坂下り女かるわ(ざ)」の赤い幟が見えることを根拠に、文化元年(1804)か翌2年とする説が有力。ただし、狂歌の陣容はそれより下ること、また極彩色の書肆板であることから、文政初年の補訂、彩色摺刷と考えるのが妥当か。狂歌は、上段の余白に1ないし3首ほど刻入するが、狂歌がなくとも構図上、遜色ないことから、当初から狂歌入りであったとは考えにくい。(鈴木淳)
〈参考文献〉林美一著『艶本研究 北斎』1968年、有光書房。永田生慈監修『北斎の狂絵本』1988年11月、岩崎美術社。』とあります。

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1.高輪の暁鳥 不峯の積雪(拡大画像リンク)
[描かれた場所は高輪大木戸で、大木戸から富士山を望む方向が描かれています。沖には菱垣廻船(樽廻船)、木戸前に東海道に旅立つ人々、海岸沿いに品川宿が描かれています。]

2.旭 元船乘初 房総春眺(あさひもとぶねのりぞめ ぼうそうしゅんぎょう・拡大画像リンク)
[画に描かれる舟は茶舟で、渡し船と思われます。]

3.築地の凧 佃吉住恵方(拡大画像リンク)
[画は築地の明石橋鉄砲洲橋辺りから、佃島住吉神社方向を描いていると思われます。画に綿帽子売りが描かれ、子供達が凧を上げ走り回っています。]
[防寒用に真綿を薄く伸ばして作った綿帽子がある。「都風速化粧伝」では「綿帽子は官女の老い人が、寒風を凌ぐために額に綿を被る。」
今は、婚礼で女性がかぶる角隠しも、塵除けや防寒用に使用されたのである。  (「江戸の女性の化粧 白粉 2-3 | メタボンのブログ – Ameba」より)]

4.三俣の白魚 永代春風(拡大画像リンク)(この画は国立国会図書館の版にはなく、「葛飾北斎『 絵本隅田川両岸一覧 』 – みんなの知識 ちょっと」より画像をコピーしています。)
[隅田川三俣西岸から、中洲、永代橋方向を描いています。中洲は『1771年7月27日(明和8年6月16日)馬込勘解由(6代目、馬込興承)により浜町と地続きになるように埋め立てが行われ、1773年1月10日(安永元年12月18日)に中洲新地として竣工した。1775年(安永4年)には町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭めたために上流で洪水が頻発し、また奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって1789年(寛政元年)取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った。この時の土砂は隅田土手の構築に利用された。(wikipedia・日本橋中洲より)]

5.市中の花 新寺の新樹(拡大画像リンク)(この画は国立国会図書館の版にはなく、「葛飾北斎『 絵本隅田川両岸一覧 』 – みんなの知識 ちょっと」より画像をコピーしています。)
[新大橋旧橋の西詰めから霊雲院方向(江東区清澄1-4方向)を描いています。]
[葛飾北斎が描いた『絵本隅田川両岸一覧』(文化3年・1806刊行)という画本の中に、「市中の花・新寺の新樹」と題された1点があります。桜が満開に咲いた隅田川の西岸から対岸の深川を眺めて描かれたこの絵は、その表題の通り、新寺と呼ばれた霊雲院を深川の中心としてみています。 (「深川寺町の形成と文化財東区深川江戸資料館 – 江東区文化」より)]

6.元柳橋の子規 大橋の綱引き(拡大画像リンク)
[5.市中の花 新寺の新樹の続き画で、薬研堀が隅田川に注ぐ場所に架かる元柳橋から新大橋方向を描いています。]

5.6の続き画合成リンク(ボストン美術館からダウンロード)

7.広小路の群衆御船蔵(拡大画像リンク)
[両国橋北東詰の広小路の画で、対岸に御蔵が描かれ、右に描かれる橋は駒止橋になります。]

8.広小路其ニ(拡大画像リンク)
[7.広小路の群衆御船蔵の続き画になり、9.両国納涼 一の橋弁天とも続き画になります。]

9.両国納涼 一の橋弁天(拡大画像リンク)
[両国橋東詰の画です。10.両国橋 無縁の日中とも続き画になります。]

10.両国橋 無縁の日中(拡大画像リンク)
[両国橋南東詰本所尾上町から見た画です。]

11.新柳橋の白雨 御竹蔵の虹(拡大画像リンク)
[両国橋北西詰、新柳橋からの画で、対岸が両国広小路、左に駒止橋が描かれています。]

12.首尾の松の釣舟(拡大画像リンク)
[隅田川の一年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。隅田川の対岸から描かれています。釣り舟の向こう、左手に描かれているのが首尾の松です。首尾の松は蔵前にずっと並ぶ米蔵の真ん中あたりにあった松で、丁度よい目印になっており、この辺は釣りの名所でした。 釣り糸の向こう、右手の森が肥前平戸新田藩松浦家の上屋敷です。この上屋敷には本所七不思議の一つに数えられる「落ち葉なしの椎」があったことから、椎の木屋敷と呼ばれるようになりました。  (「首尾松の鉤船 椎木の夕蝉(葛飾北斎ゆかりの案内板) – 史跡 」より)]

13.御厩河岸渡(拡大画像リンク)
[御厩(おうまや)の渡し
御厩河岸の渡し」とも称され、現在の厩橋付近にあった。川岸に江戸幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側に付随施設の厩があったのでこの名がついた。元禄3年(1690年)に渡しとして定められ、渡し船8艘、船頭14人、番人が4人がいたという記録が残る。渡賃は1人2文で武士は無料。1874年(明治7年)の厩橋架橋に伴い廃された。歌川広重の錦絵「浅草川首尾の松御厩河岸」にも描かれている。「富士見の渡し」(葛飾北斎 「冨嶽三十六景色 御厩川岸 両國橋夕陽見」)wikipedia-photo  (wikipedia・隅田川の渡しより)]

14.駒形の夕日栄 多田薬師の行雁(拡大画像リンク)
[浅草駒形堂前の画になります。15.大川橋の月 小梅の泊舩と続き画になります]
[右端に渡しの船が描かれており、左の屋根越しに吾妻橋が見える。江戸時代より続いていた「駒形の渡し」は昭和2年の架橋により姿を消した。浅草寺参詣者は、まずこの地に上陸し、駒形堂(浅草寺の御本
尊の像が発見された地と伝わる)でお参りをしたとされる。  (「∼吾妻橋・駒形橋・厩橋・蔵前橋∼ – 東京都建設局」より)]

15.大川橋の月 小梅の泊舩(拡大画像リンク)
[大川橋(吾妻橋)西詰の画で、16.大川橋の月其ニとも続き画になります。]

16.大川橋の月其ニ(拡大画像リンク)

17.浅草寺の入相(拡大画像リンク)
[入相とはたそがれ時のことのようです。たそがれ時の浅草寺の甍の画で、18.向島の時雨 花川戸の冬籠と続き画になります。]

18.向島の時雨 花川戸の冬籠(拡大画像リンク)
[花川戸の家並越しに見る隅田川と、対岸に牛の御前(牛島神社)が描かれています。19.待乳山の紅葉とも続き画になります。]

19.待乳山の紅葉(拡大画像リンク)
[本竜院(待乳山聖天)境内図になります。]

20.白鬚の翟松 今戸の夕烟(拡大画像リンク)
[今戸焼(いまどやき)は、東京の今戸や橋場とその周辺(浅草の東北)で焼かれていた素焼および楽焼の陶磁器。江戸時代から明治時代にかけて、日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦等を生産した。言い伝えによれば天正年間(1573年–1592年)に生産が始まるといわれる。(wikipedia・今戸焼より)
21.橋場の田家 隅田の都鳥と続き画になります。]

21.橋場の田家 隅田の都鳥(拡大画像リンク)

22.真崎の神燈 木母寺の鉦鼓(拡大画像リンク)
[画は、真崎神社(現石濱神社)境内から対岸、木母寺方向を描いています。23.三谷の田家と続き画になります。]

23.三谷の田家(拡大画像リンク)

24.吉原の終年(拡大画像リンク)
[吉原の狐舞ひ(きつねまい)とは、狐の面をかぶり、両手に御幣または御幣と鈴を持って舞い、鳥目(=穴あき銭)を受けた。江戸時代の吉原で大晦日に行われた行事であります。
吉原の大晦日の様子を描いた上記の浮世絵では、囃子方を引き連れ、両手に御幣と扇を持った狐を確認することができます。
この狐や「狐舞ひ」というものは、どういったものなのか。残る文献も数少ないなか、江戸時代に好事家が江戸市中の風俗や、行事をまとめた『絵本風俗往来』に以下の一節が記載されています。
『其以前は知らず。新吉原に限り、年越大晦日に獅子舞は壱組もなく、狐の面をかぶり、幣と鈴を振り、笛太鼓の囃子にて舞こむ。是を吉原の狐舞とて、杵屋の長唄の中にも狐舞の文句をものせしあり。抱一上人が吉原十二ヶ月の画中又此の狐舞を十二月に画かれたり。狐は白面にして、赤熊の毛をかむり錦の衣類をつけたるまま、いとも美事なり。世間の不粋は、当所大晦日の狐舞を見しものなしとなり』(『絵本風俗往来』の一節より) (「吉原の狐舞ひ – 【公式】江戸新吉原」より)]