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小平監視所(旧称:小平水衛所)、野火止用水歴史環境保全地域案内板、小平グリーンロード、青梅橋跡(青梅橋道標庚申塔)、ホタル飼育のせせらぎ、野火止緑地入口(野火止用水 放流口)、野火止橋、東野火止橋、土橋、富士見橋、仲宿橋、九道の辻公園、九道の辻 石橋供養塔、暗渠部起点、暗渠部終点、恩多野火止水車苑、万年橋のケヤキ、菊水橋、ぐみの木橋、浅間神社(三角山)、押し出し橋交差点、東京都(東久留米市)・埼玉県(新座市)境、東京都(東久留米市)終点、御成橋、西堀公園交差点、野火止用水分岐点、本多緑道、関越道懸樋、伊豆殿橋、野火止緑道、野火止用水公園
[野火止用水(のびどめようすい、のびとめようすい)は 、東京都立川市の玉川上水(小平監視所)から埼玉県新座市を通り新河岸川(志木市)に続く用水路である 。 別名を伊豆殿堀(いずどのぼり)という。 かつてはいろは樋を渡って、旧宗岡村にも水を送っており、いろは通りの歩道側には暗渠が現在も残ってる。
多摩地域には関東ローム層の乾燥した武蔵野台地が広がり、生活用水に難渋する乏水地帯の原野であったが、近世には江戸幕府開府に伴い用水確保のため江戸近郊の開発が加速した。
承応2年(1653年)、幕府老中で上水道工事を取り仕切っていた川越藩主松平信綱は、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通す玉川上水を開削した。その後、玉川上水から領内の野火止(新座市)への分水が許され、承応4年(1655年)に家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門に補佐を命じ、野火止用水を作らせた。工期は40日、費用は3000両だった。玉川上水7、野火止用水3の割合で分水した。主に飲料水や生活用水として利用され、後に田用水としても利用されるようになった。
開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、大規模な新田開発を行った。野火止用水の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、野火止用水を信綱の官途名乗りである「伊豆守」にあやかって伊豆殿堀と呼ぶようになった。新座市立野寺小学校の校歌には「めぐみの水よ 伊豆堀よ」という歌詞があるほか、他市立小学校でも「智慧伊豆の流れを汲んで」と、信綱(と安松らの功労者たち)の人柄や向学心を歌詞とした校歌が歌われている。
戦後に入り生活様式が変化すると野火止用水は次第に本来の役割を失い、生活排水が用水に入るようになる。特に1963年から周辺の宅地化が進行したため水質汚染が激しくなった。1964年、関東地方が旱魃に見舞われたために東京が水不足となり、分水が一時中止される。1966年、再度通水されるようになるが、水量が制限されたため水質汚染は改善されず、1973年には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止されてしまう。それに伴い用水路の暗渠化が進んだ。
埼玉県と新座市は文化的業績の大きい野火止用水を滅ぼしてはならないと「野火止用水復原対策基本計画」を策定して、用水路のしゅんせつや氾濫防止のための流末処理対策を実施し、東京都の「清流復活事業」により1984年、高度処理水(下水処理水)を使用して水流が復活した。 流域に住むボランティアによる清掃活動もしばしば行われる。そのため現在では流域住民の憩いの場となっている。
平林寺の南1km付近を流れる野火止用水・wikipedia-photo (wikipedia・野火止用水より)]