マーカーは九道の辻 石橋供養塔です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1917~1924年の地図で、東村山村の下に九道の辻が記述され、鎌倉街道以外の8本の道が描かれています。
九道の辻 石橋供養塔
[ ここ九道の辻は、旧鎌倉街道のほぼ中間で、鎌倉へ十八里(約七十二キロメートル)、前橋へも十八里と旧鎌倉街道のほぼ中間にあたります。江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の九本の道が、この地に分岐していたことから 、九道の辻という名がつきました(「迷いの桜」に図があります)。]
[「九道の辻」は、江戸街道と府中街道、野火止用水等と交差する辻をいいます。
元文5年(1740)の石橋供養塔には、「川越道」、「山口道」、「青梅道」、「前沢道」、「江戸道」、「八王子道」の6方向が示されており、9本の道が交差していました。 (「第2弾 東京街道(江戸街道) | 行けばわかるさ!東村山の道 | まいぷれ …」より)]
[ここで江戸道、秩父道、大山街道、鎌倉街道などが9方向に分岐していたことによる。野火止用水の流れは辻を過ぎると西武多摩湖線八坂駅の真下をくぐった先で一時暗渠となる。 (「緑と水のひろば 60号(PDF) – 公園へ行こう!」より)]
[野火止用水(のびどめようすい)
小平市中島町~埼玉県新座市野火止
承応4年(1655)、老中松平伊豆守信綱が、玉川上水開削の功績により玉川上水の水を自己の領地内に引く許可を得て開いたもので「伊豆殿堀」とも言います。
市内中島町西端の取水口からの水は、九道の辻を通って野火止に至り、大和田、志木地方の稲田を潤し、新河岸川の樋(いろは樋)を渡って宗岡村(現埼玉県志木市)に達していました。
この用水が開通した明暦のころは、この用水沿いには50数戸の農民が居住しているに過ませんでしたが、その後移り住むものが増加し、明治初期には1,500戸がこの用水を飲料水にしていたといわれます。
小平市教育委員会
小平郷土研究会]
「ぶらり番外編(九道の辻③) 前沢道はどこか。… – 帰ってきたぶらりまち」
「九道の辻 石橋供養塔 – Google Map 画像リンク」、「迷いの桜 – Google Map 画像リンク」、「九道の辻公園 – Google Map 画像リンク」
カメラ北西方向ロード標識右に九道の辻の標柱があり、左方向に野火止用水の案内板があります。
カメラ東方向が九道の辻 石橋供養塔です。
カメラ南方向・八坂交番裏に「迷いの桜」の案内板があります。
カメラ北北東方向高架が西武多摩湖線で、道路左が野火止用水です。