マーカーは野火止用水歴史環境保全地域案内板です。
野火止用水歴史環境保全地域案内板
[指定年月日 – 昭和49年12月13日指定。昭和52年3月31日、昭和53年3月31日、昭和56年2月12日、昭和62年2月19日、昭和63年1月9日、平成元年3月30日、平成元年12月15日、平成5年3月5日、平成8年2月29日、平成17年8月15日、平成22年3月23日区域変更。
位置 – 小平市中島町から東久留米市小山5丁目に至る野火止用水路及び隣接樹林地
面積 – 197,104.03平方メートル
自然の概要 – 1655年に開削された野火止用水(玉川上水路から分かれる地点から都県境まで、延長9.6km)と、それに隣接する樹林地からなる地域である。
保全の方針 – 用水路は原型のまま保全することを基本とし、隣接樹林地については、明るい雑木林として保全する。 (「1 野火止用水歴史環境保全地域|東京都環境局 緑の創出と自然環境の保全」より)]
[玉川上水分水のうち、最初に掘られ最大の規模をもつのが野火止用水(伊豆殿堀)である。玉川上水開削の総責任者、老中松平伊豆守信綱が藩主である川越藩が進めていた野火止新田(埼玉県新座市)へ引かれた。今の小平市西端から4里(16km)を、玉川上水開通の翌年の承応4年(1655)2月から40日間で開削したと記録されている。
分水門は幅1間(1.8m)、羽村(羽村取水堰)で取り入れた水量の3分の1を流せる格別の大きさをもつことから、江戸有事の際に川越藩が野火止平林寺に駐屯することを想定しての分水か、と考える説もある。堀はのちに引又河岸(志木市)まで延長、さらに新河岸川を懸け樋で渡し、宗岡村(同・引又河岸)も利用したため玉川上水からの延長は6里(24km)におよぶ。館村(同)・宮戸村(朝霞市)へも分水され重要な灌漑用水でもあった。
野火止用水は東京都の水道事情によって一時流水は途絶えていたが、昭和59年(1984)に再生水を放流、復活した。小平市・東村山市(東大和市・清瀬市・東久留米市境)を通過し新座市平林寺付近まで、市街地化が進むなか暗渠部分はあるものの用水堀に沿った遊歩道をたどり、水車遺構、窪地を通した土木技術など当時を偲ぶことができる。 (「緑と水のひろば 60号(PDF) – 公園へ行こう!」より)]
カメラ東南東方向に野火止用水歴史環境保全地域案内板があります。