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鎌倉街道(上の道)についてwikikpediaには下記の記述がされています。
『古道としての鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、鎌倉時代の関東近郊の主要道の意として用いられている。1192年、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉を中心に東国の各地域を結ぶ新たな道路整備に力を注ぎ、次々と放射状に延びる道路網が建設された。東国15カ国の御家人が番役として幕府に順番に奉仕したため、おおむねその範囲にわたる。それだけではなく、古代朝廷では十分支配が及ばなかった東北地方や蝦夷地まで交通圏が拡大したことや、西は越中、飛騨、信州から東国を経て鎌倉に向かう道筋が何本か明らかになっており、鎌倉街道あるいは鎌倉道と呼ばれる道はかなり広範囲に数多くあったとみられている。
古代の官道はなるべく幅を統一し、京と最短になるよう直線的に整備された。これに対して鎌倉街道は幅が不揃いで、曲がりが多く、複線の区間もあった。古道研究の専門家は、各地の武家や寺社が作った道を利用したためと説明している。また、鎌倉街道だったと言い伝えられながら、鎌倉街道の他区間とつながらない道がある。その理由として、鎌倉街道という言葉が使われるようになった江戸時代には、地元の道を、鎌倉街道だったと言い伝えるようになったことによると推測する研究者もいる。
鎌倉街道の幹線道は全国の国府を通り、街道沿いに守護所も置かれたが、その数はごく限られていた。特によく知られるのが、上道(かみつみち、かみのみち)・中道(なかつみち、なかのみち)・下道(しもつみち、しものみち)とよばれる関東地方を中心に広がる主要な幹線道3本で、さらに支線も加わり、現在でも鎌倉街道の名を残すところも多い。鎌倉から武蔵、上野の国府を通り、碓氷峠を越えて信濃へ行く道(上道)、東海道筋をたどる京鎌倉往還、鎌倉から甲斐とを結ぶ道(御坂路、甲州鎌倉道)、下野の国府を通って白河関を越える道(中道)、常陸の国府を通って勿来関を越えて奥州へ行く道(下道)などがあった。
一方で、鎌倉街道の呼び名が一般的に用いられるようになったのは江戸時代以降で、鎌倉時代に書かれた鎌倉政庁自らの記録である『吾妻鏡』をはじめ、当時の諸文献に「鎌倉街道」の呼び名は見られず、江戸時代の書物である『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』(江戸名所圖會)などに鎌倉街道が散見されている。
軍事道路としての側面は、鎌倉時代初期に頼朝が、鎌倉から大軍を率いて奥州平泉の藤原氏を滅ぼした奥州征伐の際に使用したが、これ以外で幕府が実際に軍事目的で使用したという記録はあまりない。元弘三年(1333年)の鎌倉幕府滅亡時、朝廷方の新田義貞が上道を通って鎌倉に侵攻した時に逆に利用された。
鎌倉街道上道として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、鎌倉 – 化粧坂 – 瀬谷 – 本町田 – 小野路 – 府中 – 所沢 – 入間 – 笛吹峠 – 奈良梨 – 山名 – 高崎のルートである。武蔵国府付近は、東芝府中工場 – 分倍 – 中河原へ抜けるルートとなっている。
上道のルートは、古代律令時代の駅路で、奈良時代に廃絶した東山道武蔵路と似通った道筋を通っているが、おおよそ近くを通るだけで完全に一致するところはないとみられている。
口伝により現在、鎌倉街道と呼ばれる古道・鎌倉往還道のうちには、市道として断続的に名前が残っている箇所(東村山市・小平市内などの府中街道に平行するような形態の狭い幅の道路など。)や国分寺市と府中市の市境で黒鐘公園付近にある伝鎌倉街道がある。』
上記と「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」を参考に歩けるルートを設定し、「Google Earthで街並み散歩を(江戸編)」で取り上げた個所を表示してみました。
ここでの鎌倉街道(上の道)は、多摩川に架かる「関戸橋」から東村山市の久米川古戦場跡碑を目指します。
起点とした中河原渡し跡に架かる「関戸橋」は、中河原渡し(多摩市側では『関戸の渡し』)の代替として1937年に架橋。橋の名は南岸の多摩村関戸(現在の多摩市関戸)より取られました。平成28年1月から関戸橋架け替え事業が始まり、現在仮橋工事中で多摩川通りに設置されていた中河原渡し跡碑が撤去されていますが、中河原渡しの案内碑は中河原公園にも設置されています。
「関戸橋」から北上する鎌倉街道(上の道)は、京王線中河原駅高架先、中河原駅北交差点で北東方向・陣街道(現在の鎌倉街道)を進みます。陣街道に入ると左側に、行基の作とされる阿弥陀如来を祀る法音寺があり、その先新田川緑道に新田義貞と北条泰家が戦い、鎌倉幕府の滅亡に繋がった分倍河原古戦場碑があります。さらにその先に進むと、分梅駐在所交差点があります。現在の鎌倉街道はここで分かれ大國魂神社西側の府中街道に向かいます。この交差点には南側に地名由来碑(分梅)、北側に陣街道碑が設置されています。陣街道(じんかいどう)の名は、この道が中世に軍勢が陣立てをして往来したことに由来し、この道は鎌倉と北関東を結ぶ主要道路で、「鎌倉街道」「浅間道」「分倍道」の別名があります。
現在の鎌倉街道と分かれ、北に進む陣街道は現在分梅通りと称されています。すぐ右に鎌倉時代創建の光明院があり、その前の坂は光明院坂と言われています。JR東日本の南武線の踏切を渡った先左に、社地内に天王塚古墳(六世紀後期)がある天王宮八雲神社があり、またその先道路際にに元応元年(1319)銘の板碑(現在は複製を設置)があります。
さらに進むと、左側に江戸時代には屋敷分村の鎮守社であった屋敷分浅間神社があり、参道前左に地名屋敷分の由来碑、右に延宝2年(1674)建立の屋敷分の庚申塔があります。
分梅通りはその先旧甲州街道を通過し、甲州街道で終わります。旧道はその先、東芝府中工場で途絶します、また東芝府中工場間も区画整理のため判然としませんので、旧道になるべく沿って横街道先に出て、東八道路を迂回し武蔵国分尼寺跡西側を通過して、伝鎌倉街道に到着です。伝鎌倉街道エリアには伝祥應寺跡や尼寺北方の塚があります。また、武蔵国分尼寺跡西側方向、新府中街道西に新田義貞と北条泰時が元弘3年(1333)5月に鎌倉幕府の興亡をかけて戦った折に、義貞が幕府方を分倍河原に攻め込もうとして疾駆したが、そこで夜が明けてしまったことに由来する白明坂(しらみざか)があります。
伝鎌倉街道を抜けるとJR東日本の武蔵野線に遮られ、これを迂回して府中街道泉町交差点に出ます。この交差点の東側に東山道武蔵路跡があります。東山道武蔵路は鎌倉街道(上の道)以前の古道で、鎌倉街道(上の道)は東山道武蔵路にほぼ並行していると言うことです。道路跡の約300メートルは歩道形式で保存され、谷部へ下る切り通しの部分の遺構平面レプリカを野外展示されています。
府中街道泉町交差点から府中街道を進み、西国分寺駅北口交差点を右折して、その先の階段を降り、旧府中街道にでます。ここの右側は国分寺姿見の池緑地保全地域で、恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われ、傾城・夙妻太夫が武将・畠山重忠を慕って 身を投げた池といわれる姿見の池があります。
旧道を進むと、夙妻の死を悼んだ重忠が、その菩提を弔って創建したと伝えられている阿弥陀堂跡があり、その先左に鎌倉時代初期創建の東福寺があります。阿弥陀堂と東福寺は「江戸名所図会」の「恋ヶ窪 阿弥陀堂 傾城松 牛頭天王」に描かれています。
さらに進むと、元弘の乱(1331-1333年)で社殿を焼失したとされる西恋ヶ窪熊野神社があります。
その先、西武国分寺線で遮られますので、現府中街道に出て北上します。恋ヶ窪交差点北側に厳島弁財天が祀られています。
さらに北上し、五日市街道との交差点で右折し、五日市街道を進み、次の信号で左折し旭ヶ丘中通りを進み、玉川上水通りで右折してすぐの鎌倉橋で玉川上水を渡り、玉川上水に並行に流れる新堀用水を渡ると、小平市の鎌倉街道です。小川村開発以前の小平はススキの生い茂る広漠たる原野で、この原野に天平の昔(730年頃)から、府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ1本の官道がひらけていました。この道がその後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くにおよび、鎌倉街道と呼ばれるようになりましたが、明治にはいり廃道となってしまいました。この道は「たかの街道」「青梅街道」を横断して「六小通り」まで続きます。
「六小通り」で左折して再度府中街道に合流して北上します。西武拝島線高架を潜り八坂交差点に出ます。ここは、江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の九本の道が、この地に分岐していたことから 九道の辻とよばれていました。(明治初期に鎌倉街道は消滅しています)
その先、西武多摩湖線、多摩湖自転車道を潜り北上すると、弘安元年(1278)前後から応永14年(1407)前後に創建したとされる八坂神社があります。空堀川の野口橋を渡り、新青梅街道を抜け、西武新宿線踏切りを渡り、東村山駅東口交差点を過ぎ、東村山市商工会館先の二又で左に入ります。この道は東村山市旧跡(鎌倉古道)で、鎌倉古道に入ってすぐ左の民家門先に市旧跡(鎌倉古道)の標柱、その先久米川少年野球場フェンス際に案内板が設置されています。久米川少年野球場先で久米川辻から廻田町や青梅方面へ延びる道に合流し左折し、元弘三年斉藤盛貞等戦死供養碑が移設されている徳蔵寺(徳蔵寺板碑保存館)前を通過し、前川に架かる徳蔵寺橋、北川に架かる将陣馬橋を渡つた先に久米川古戦場跡記念碑があります。ここは、古代に武蔵国府と上野国府を結ぶ東山道武蔵路が通り、鎌倉時代には鎌倉から上野国に向かう鎌倉街道が南北に縦断する交通の要衝で、元弘3年(1333)に、新田義貞が鎌倉幕府倒幕のために挙兵し戦った〝久米川合戦″の地です。