鎌倉街道(大宮神宮赤塚城ルート)

    下地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックすると、上地図がそのマーカーポイントにズームし、下地図にマーカーポイントの吹き出しが表示されます。また、吹き出しにもリンクを設定しています。

    北倉庄一主宰の「街道を尋ねて」-「(第3) 阿佐ケ谷道」を参考に鎌倉街道(大宮神宮赤塚城ルート)のルート設定とルートに近接する「Google Earth で街並み散歩」の「江戸編」と「東京の坂道編」で取り上げたポイントを表示してみました。
    ルート設定には「街道を尋ねて」を主にしていますが、「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」、「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室) 」、「東京府15区8郡時代の町村区分図」 – 「東京府荏原郡世田谷町」「豊多摩郡和田堀町全図」、「番地入最新杉並町全図」、「東京府豊多摩郡野方町全図」を参考に設定してみました。

    大宮神宮赤塚城ルートには、康平6(1063)年、前九年の役(1051-1062年)に勝利し源頼義凱旋の際、記念の地として、岩清水八幡宮を勧請し創建されたといわれる大宮八幡宮と、康平7年(1064)年に戦勝を感謝し、国家と源氏の安寧を願い建立したのが始まりとされる、鷺宮八幡神社高松八幡神社があります。また、鎌倉街道(都区内Bルート)上にある世田谷八幡宮とのルート接続も考慮して見ました。世田谷八幡宮は、寛治5(1091)年、後三年の役(1083-1087年)の帰途、源義家(源頼義の嫡男)がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つため、滞在することとなり今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の御加護に依るものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の御分霊をこの地に勧請し祀ったとされています。
    大宮神宮赤塚城ルートの終点とした、赤塚城は治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵後に徳丸(東京都板橋区)を通過した際に立ち寄ったとも言われ、真北にある荒川の早瀬の渡し場を一望し、また武蔵北部から武蔵南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道(埼玉道)を押さえる、陸運、水運を掌握する要衝であったとされています。
    大宮神宮赤塚城ルートの中心には、東京都道427号瀬田貫井線があり、通称名として、永福通り(甲州街道との交差点 – 永福町駅前交差点)、松の木八幡通り(大宮八幡前交差点 – 五日市街道との交差点)、中杉通り(杉並区役所前 – 貫井二丁目)と称されています。中杉通りの道筋は、かつての「子の権現道」に重なる部分が多く、「子の権現道」は甲州街道の高井戸から永福、大宮八幡から阿佐ヶ谷を経て、目白通りのそばにある「子の権現」という寺(円光院)への参詣道であり、江戸の頃は往来が盛んであった、とのこと。その道筋は鎌倉時代に鎌倉と結ばれた鎌倉街道の道筋と重なるようであるとされています。また、現在の中杉通り完成前の旧中杉通りは松山通り(世尊院前-日大通り間)と名称を変えています。

    ルートの起点は、鎌倉街道(都区内Bルート)上にある凧坂下・半田坂(えんま坂)下で、二又道の東の半田坂ルートは「世田谷の古道「松原大山道」 – FC2」によると、松原大山道になります、大宮神宮赤塚城ルートは西側の凧坂ルートを取ります。凧坂ルートは、この坂上方向途中左に菅原神社があるので、菅原天神通りと呼ばれています。
    甲州道松原2丁目交差点に出て、都道427号(永福通り)を北上します、神田川永福橋を通り、永福寺永福稲荷神社前、永福町駅東踏切りを通過し、井の頭通りの先杉並区和泉3丁目13地先で三辻の真ん中を通ります。
    方南通り大宮八幡前交差点から通称松の木八幡通りになり、大宮八幡宮前を通過し、善福寺川宮下橋を渡ります。松の木八幡通り途中の杉並区松ノ木2丁目41地先で松の木八幡通りと分かれ、北上し田端おんだしで青梅街道に出、そのすぐ先、すずらん通りに入ります。
    阿佐ヶ谷駅周辺は「今昔マップ」の1896~1909年地図を参考に設定しています。
    すずらん通り先でアーケード街の阿佐ヶ谷パールセンターになります。阿佐ヶ谷パールセンターを出て、中杉通りに一旦出て、ガード下を潜りすぐ右折、けやき屋敷の西側を通り、阿佐ヶ谷神明宮前で左折し、世尊院前で再度中杉通りを横断すると松山通りになります。
    世尊院の本堂は、1973年に中杉通り建設のため現在地に移築され、現在では中杉通りを挟んで東側に本堂が、西側に墓地、観音堂などがあります。
    松山通りにある法仙庵前を通過し、日大通りを渡ると、再再度中杉通りに出、ここから中杉通りを北上します。
    早稲田通りを通過して、杉並区・中野区の境界を越え進むと、妙正寺川手前に交通安全厄除地蔵尊があり、この右方向に鷺宮八幡神社福蔵院があります。
    交通安全厄除地蔵尊は、江戸時代には鷺宮八幡神社の別当寺を務めていた福蔵院の29世住職故星野大僧正の発意により、昭和12年に日本で最初の交通地蔵尊として建立されました。
    妙正寺川八幡橋を渡り、新青梅街道を越えて進むと、中野区・練馬区の境界に北向地蔵(子連れ願かけ地蔵)があり、その先中村3丁目先で二又があります、この地点を中村追分としました。ここで中杉通りと分かれて北北東方向に進みます。
    良辨塚、稲荷利大神祠 不動堂前を通り、中村公園前交差点で右折して、すぐ左折し、仙川通り、目白通りを抜け、14世紀末頃に豊島氏が石神井城の支城として築いたものと考えられている、練馬城跡(遊園地「としまえん」)前に出ます。中之橋南交差点、石神井川中之橋を過ぎ、石神井川中之橋旧親柱がモニュメントとして設置してある、二又の右方向に進みます。その先二筋目を右折します、この道は古道のようで、「今昔マップ」の1896~1909年地図を参考にします。
    突き当りを左折して二筋目・旧道(田中道)合流点の右方向に、内田家の屋敷林、その先石神井川大橋袂に、不動明王座像と敷石供養塔があります。案内板には「石神井川に架けられる「大橋」は、江戸時代後期には存在しており、埼玉道(さいたまみち)から現在の新桜台駅辺りで分岐して北西に伸び、ふじ大山道(おおやまみち)へ至る旧道(田中道)が通っていました。」と記述されています。
    旧道先、新道との交点に夜泣き地蔵尊があり、北北東方向に進みます。この付近を「今昔マップ」の1896~1909年地図を見ると、寿福寺前の通りは早宮小学校前を迂回するルートしか描かれていませんので、早宮小学校前を通って寿福寺前に出ます。
    環八通り本寿院入口交差点を横断して、車進入禁止区間を通り、練馬東中北交差点で都道442号線を北上します。田柄川緑道を過ぎ、練馬区・板橋区の境界にある国道254号線を横断し、赤塚中央通りに入ります。東武東上線下赤塚駅東踏切りを渡り、元塚地蔵尊前を通り、松月院交差点に出ます。この付近一帯が赤塚城エリアになります。現在は小高い丘に本丸跡の「赤塚城址」があり、ふもとに板橋区立赤塚溜池公園、板橋区立郷土資料館板橋区立美術館が隣接し、徒歩数分圏内には東京大仏で知られる赤塚山乗蓮寺(二の丸跡)や板橋区立赤塚植物園があります。