鎌倉街道(都区内Aルート)

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    北倉庄一主宰の「街道を尋ねて」を参考に鎌倉街道(都区内Aルート)のルート設定とルートに近接する「Google Earth で街並み散歩」の「江戸編」と「東京の坂道編」で取り上げたポイントを表示してみました。
    ルート設定には「街道を尋ねて」を主にしていますが、「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」、「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室) 」、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕]、「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [41]貮拾壹貞」及び「第48号 – 雑司が谷のまちづくり」を参考に設定してみました。

    ルートの起点は「街道を尋ねて」が起点にしている兵庫島として、旧玉川高校(現東京都公文書館)北東交差点を北上し、六郷用水稲荷橋を渡ります。ここから柿ノ木坂下まで二子道と重複しています。
    柿ノ木坂下で二子道旧道東口先を北北東方向に進み、突き当りを右折して、環七通り柿の木坂一丁目交差点を横切り、その先で北方向に進み、葦毛塚を通過して、通称「オリンピック道路」の蛇崩交差点を北東方向(半兵衛坂)に進みます。寿福寺前を過ぎると、二又分岐点に宿山(しゅくやま)の庚申塔があり、その前を東方向に進みます。ここの坂を小川坂と言い、そこを過ぎて、山手通り、目黒川に架かる宿山橋を渡り、目切坂を登り、目切坂上の代官山交番前交差点を横断して北上します。
    山手線を猿楽橋で渡りますが、その先新並木橋北側に金王下橋(並木橋)がありますので、都市計画道路補助第20号線下に降りて、山手線手前で再度都市計画道路補助第20号線に上り、山手線東側で再度下に降り金王下橋(並木橋)へのルートを設定してみました。
    金王下橋(並木橋)から八幡坂を登り、六本木通りを抜け、青山通りに出て、右折し、南青山五丁目交差点手前の小路(渋谷区・港区境界)を左折します。突き当りを右折(この通りは「〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図」絵図四つ切左上・稲葉長門守右の小路で、この小路の突き当り小路は、穏田川下の小路と思われます。)し、表参道、外苑西通りを抜け神宮前3丁目42-1地先前で左折します。
    青山熊野神社龍巌寺前の通りは、八幡太郎義家が永保3年(1083年)、ここで軍勢を揃えたとの言い伝えがある勢揃坂です。
    勢揃坂の先で、突き当りを左折し、再度外苑西通り(霞ヶ丘交差点・千原橋跡)を抜け、仙寿院西側で、榎坂に入り、瑞円寺前を通り、観音坂を登り鳩森神社前に出ます。
    鳩森神社より先は内藤駿河守下屋敷跡(新宿御苑)があり、新宿御苑内を抜け、太宗寺東に出るルートを設定してみました。
    太宗寺東道を北上して、靖国通り新宿一丁目北交差点を左折。ここから西向天神までのルートは、「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号3/5・絵図中央下方向に「天神 大聖院」と描かれています。江戸時代は「天神 大聖院」に至る道筋は太宗寺から直接行ける道はなく、迂回していたようです。)を参考にしました。新宿三番街を北上して、コンフォリア新宿イーストサイドタワー前通りを右折し、新宿区立天神小学校角を右折すると、西向天神に至ります。
    西向天神前を通り、抜弁天通りの下を潜り久左衛門坂に出ます。そこで左折して久左衛門坂下を通過して、変則交差点で右折します。次の二又を左折、大久保通りを左折して、明治通りの一辻前を右折します。この付近は戸山山荘跡(尾張藩徳川家下屋敷跡)なので、「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [20]拾九貞]」のコマ番号3/13・絵図は東が上になっていますので、90°回転して北を上にするとわかりやすいです。90°回転してみると、尾州外山屋敷の左の道は、一部現在の明治通りに沿うように残っています。道路の左側が現在の大久保二丁目・三丁目になります。今昔マップ(1896~1909年地図)にも、描かれていますので、明治通り建設前の旧道をルートに設定しました。
    学習院女子大学正門前付近から旧鎌倉街道が再開されます。北上すると早稲田通りに出ます。次に、巣鴨信用金庫左の道を北上し、新目白通りに出て、神田川に架かる姿見橋(面影橋)を渡り、高田氷川神社南蔵院金乗院慈眼寺前を通り、宿坂を登り、目白通り高田一丁目交差点(高田四家町四ッ辻)に出ます。
    高田四家町四ッ辻を渡り、鬼子母神表参道を北上して、鬼子母神堂前に出ます。ここから、山手線の宮仲橋まで、「第48号 – 雑司が谷のまちづくり」に、
    『雑司が谷の鎌倉街道
    鎌倉から台東区上野忍岡を通り奥州などへ通じる鎌倉街道を「下の道」と言います。途中大田区池上で分かれ目黒千駄ヶ谷旧高田馬場面影橋宿坂のやや東を抜け鬼子母神大門東裏通り(今はない)・本納寺前、弦巻通りを横切って蓮成寺(明治二十八年移転)と百姓忠左衛門の家(江戸地図)との間の坂を登る道(現東京音大構内)も鎌倉街道と呼ばれていた。
    迂回して東通りへ出る。日出小学校(現豊島区役所・Google Maps)西門前の道をたどる。この道は鎌倉街道のなごりの道だ。
    街道はサンシャイ60の西南角をかすめアムラックス(Google Maps)裏の路地を抜けて春日通りを渡り、時習小学校まで一直線に進むが、今は迂回が必要だ。時習小の先にJRの線路を跨ぐ宮仲橋(Google Maps)がある。以前ここが踏切りだった頃は「第一鎌倉踏切」と言った。

    と記述されていますので、その記述とおり設定しました。
    宮仲橋を越えて、北上すると明治通りに出ます、上池袋二丁目交差点で右折、明治通りを北上して、白山通り/中山道との西巣鴨交差点手前で豊島区(巣鴨)と北区(滝野川)の境界小路で左折し、中山道を横切ります。
    国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [41]貮拾壹貞」を見ると、コマ番号4/10地図で、地図上の道路が旧中山道で、地図四つ切左上に巣鴨村と滝野川村の境界が、ルートに設定した豊島区(巣鴨)と北区(滝野川)の境界小路になります。境界道路を進むと建仁2年(1202)創建とされる、滝野川八幡神社、滝野川(石神井川)、大門道(谷津観音の坂)の先に建保2年(1214)創建とされる、寿徳寺が描かれています。コマ番号6/10地図で寿徳寺右方向に十条村が描かれています。旧中山道から滝野川(石神井川)までの道路が現在の滝野川八幡通り商店会になると思います。
    滝野川八幡通り商店会を抜け、石神井川を渡り、寿徳寺参道前を通り王子新道に出ます。この先、陸上自衛隊 十条駐屯地があり中断します。十条駐屯地には十条久保遺跡があり鎌倉街道中ツ道遺構が発見されていて、鎌倉街道は駐屯地内を通っていたようです。
    ルートとして駐屯地右道路を迂回して、十条駐屯地前に出ます。十条駐屯地前から北上して東京都道460号中十条赤羽線(旧岩槻街道)に合流して、さらに北上し、十条冨士神社前を通り、環七通りを横断し、清水坂を下ります。香取神社法真寺
    太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡に、太田道灌の死後、太田道灌の師雲綱和尚が1504年に城の一角に彼を弔う堂を建立して道灌寺とした事にはじまる、静勝寺前を通過し、赤羽駅で駅北側に出て北上すると、寛正2年(1461)宥鎮和尚によって開山され、約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興したとされる、宝幢院があり、宝幢院前には江戸時代の中期、元文5年(1740)12月に了運という僧侶によって造立された道標があり、宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、 銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付道」・「西 西国冨士道  板橋道」・「南 江戸道」と刻まれています。
    ここで鎌倉街道(都区内Aルート)と合流します。