鎌倉街道(都区内Bルート)

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    北倉庄一主宰の「街道を尋ねて」を参考に鎌倉街道(都区内Bルート)のルート設定とルートに近接する「Google Earth で街並み散歩」の「江戸編」と「東京の坂道編」で取り上げたポイントを表示してみました。
    ルート設定には「街道を尋ねて」を主にしていますが、「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」、「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室) 」、「東京府15区8郡時代の町村区分図」 – 「東京府荏原郡世田谷町」「豊多摩郡和田堀町全図」、「東京府下北豊島郡上板橋村全図」及び「世田谷の古道「松原大山道」」を参考に設定してみました。

    ルートの起点は鎌倉街道(都区内Aルート)と同じく、「街道を尋ねて」が起点にしている兵庫島として、多摩堤通りから厚木街道高架下を通過、品川用水に架かる治大夫橋(旧慈眼寺橋)を渡り、瀬田玉川神社前を通過し、慈眼寺前の笠付庚申塔前で右折、カトリック瀬田教会前で左折して環八通りを横断し、大山街道に突き当たって左折し、首都高速3号線高架下・田中橋交差点を通過し、用賀駅前に出ます。用賀駅東口交差点から旧大山道に入り、途中大山道追分を通過、弦巻橋(下ノ橋)跡(陸上自衛隊交差点)、八幡社と大山道旅人の像、蛇崩川洗い場跡碑がある大山道児童遊園前を通過して、用賀口道標跡のある鈴正畳店を過ぎて世田谷通り桜小前交差点で世田谷通りに出ます。
    ここから、「街道を尋ねて」のルートよりはずれ、『世田谷の古道「松原大山道」』を参考に世田谷八幡宮東側の都道427号線を進みます、烏山川宮之坂橋(烏山川緑道八幡橋)を渡り、世田谷八幡宮の東を通ります、世田谷八幡宮の東側の道は坂道になっていて宮の坂と言われています。
    世田谷八幡宮は、寛治5年(1091年)後三年の役(1083〜87)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つため、滞在することとなり今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の御加護に依るものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の御分霊をこの地に勧請し祀ったとされています。
    都道423号線との交差踏切りを渡り、427号線を北上し、豪徳寺商店街、豪徳寺駅高架下を通過、山下新橋(大橋・北沢川緑道)を通過し、松原六丁目交差点で都道427号線を分かれて、北上すると二又道に行き当たります。鋭角角に「馬頭観世音」と刻まれる馬頭観音があるこの二本の道は、右側が『世田谷の古道「松原大山道」』で言う松原大山道で半田坂(えんま坂)と言われています。右側が凧坂で坂上方向に菅原神社があり菅原天神通りと言われているようです。この二本の道は、大宮八幡宮からそう離れていない甲州街道にでます、大宮八幡宮からの鎌倉街道接続が魅力的な道になります。
    半田坂(えんま坂)方向に進み、最初の道を右折します、進むと徳明地蔵がある交差点に出ます。ここで、「街道を尋ねて」のルートと合体します。さらに進み二又北側道を進むと、明林地蔵尊があります。
    東松原商店街、東松原駅踏切りを抜け、東松原商店街北端の二又南側を進みます。羽根木子育地蔵尊羽根木神社参道前を通り環七通りに出ます。ここで、「東京府荏原郡世田谷町」と「豊多摩郡和田堀町全図」を見ると環七通りが建設前の地図で、「豊多摩郡和田堀町全図」には環七通り計画路線が描かれています、甲州街道の環七通り交点から、十貫坂まで道が通つています。また、「今昔マップ」1896~1909年地図も同じ様に描かれていますので、このルートを設定してみました。
    環七通り泉南交差点で左に入り、環七通り方南小学校前交差点でクロスして環七通りを横断します。神田川上水橋を渡り、東運寺前を通過して、方南通り方南2丁目交差点に出ます。
    方南通り方南2丁目交差点の東西方向に、康平6(1063)年、源頼義凱旋の際、記念の地として、岩清水八幡宮を勧請し創建されたといわれる大宮八幡宮と、源頼義の長男、源義家が雑色村に先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えらる多田神社があり、両社間に鎌倉街道と伝えられる古道があったと言われています。多田神社方向への古道は方南通り方南2丁目交差点の方南通り南側の道です。
    方南通り方南2丁目交差点で方南通り北側、北東方向道路を進み、駒ヶ坂を下り、善福寺川を渡ります。その先、東円寺立法寺の先、和田1丁目12地先交差点で右折します。御嶽社 榛名社 稲荷社・不動堂 大山別院前(「豊多摩郡和田堀町全図」では、東円寺エリア北東角から御嶽社、不動堂東まで斜めに直線道で描かれています。)を通り、杉並能楽堂十貫坂地蔵堂前を抜けると、十貫坂にかかります。十貫坂を登り、十貫坂交差点を北東方向に進むと、鍋屋横丁(青梅街道)です。
    鍋屋横丁交差点を北上します、桃園川緑道(三味線橋)を通過して、中央本線ガードを潜り、早稲田通り天神坂上交差点に出ます。この交差点から北は通称「大日橋通り」と言い、「今昔マップ」1896~1909年地図でこの付近を見ると早稲田通り天神坂上交差点から北は崖筋となっていて迂回しています、現道が出現するのは1927~1939年地図からで、「今昔マップ」1896~1909年地図に近いルートを設定して、「たきび」のうた発祥の地を目指します。
    童謡「たきび」のうたの作詩者巽聖歌(たつみせいか:本名:野村七蔵1905~1973)は、岩手県に生まれ、北原白秋に師事した詩人で、多くの優れた児童詩を残しました。聖歌は、この詩が作られた昭和5、6年頃から約13年の間、萬昌院のすぐ近く、現在の上高田4丁目に家を借りて住んでいました。朝な夕なにこのあたりを散歩しながら、「たきび」のうたの詩情をわかせたといわれています。また、上高田4丁目には享徳2年(1453)に創建したと伝えられる、上高田氷川神社があります。
    「たきび」のうた発祥の地の東を通り、突き当りを右折して、最初のT字路を左折して、次の変則5差路を北北西方向に進み、西武新宿線新井薬師前駅東踏切りを渡るとその先に薬師駅北口商店街庚申塔があります。
    中野区立上高田小学校前の二又の右を進み、新井薬師前駅北口前通りに出て、松が丘地蔵尊前を通り、妙正寺川四村橋を渡りります。四村橋西側付近は突き出た形で新宿区のエリアになっています。
    神田川のページ>四村橋(妙正寺川)」では四村橋について、
    『西武新宿線新井薬師駅前の踏切から北側のだらだら坂を降りきったところにある交通量の多い橋。
    上の写真で、バスが向っている方向(右斜め向こう)が新井薬師駅、左側斜め手前が江古田/東長崎方面。手前の門や柵の内側は近隣の名所「哲学堂公園」の南東端である。
     ここから下流の妙正寺川は新宿区と中野区の境になっているが、この橋付近だけは新宿区(西落合)が川の右岸に張り出しており、写真に写っている景色全体が「新宿区内」になる。
     地形的には特に必然性が感じられない境界なのだが、実はこの線は古くからの「武蔵国豊島郡」「同、多摩郡」の境であり、1818年に「広い意味での江戸の範囲」を示すものとして定められた「朱引」の線とも一致する。そういうなんだか由緒ある境界線なのである。
     地名でいうと、新宿区側は朱引内(1818年に設定された公式な江戸の範囲内)の葛ヶ谷村(現在の町名でいえば西落合)、中野区側は朱引外の上高田村(現・上高田5丁目)と片山村(現・松が丘1丁目)に属していた。』
    と記述しています。
    哲学堂公園一帯は、鎌倉時代、武将和田義盛(1147-1213年)の居城であったという伝承があり、哲学堂公園東側の葛谷御霊神社は、平安時代の前九年の役(1051–1063年)の帰途、京都の桂(葛)の里の一族が当地に住み着き、当地付近を葛ヶ谷と呼ぶようになり、その際に八幡社が勧請されたと伝えられます。また、この付近が享徳の乱(1454-1482年)の最中の文明9年(1477年)に太田道灌、豊嶋泰経らが激しく戦ったとされ、哲学堂公園北西妙正寺川左岸の江古田公園内に江古田古戦場の碑があります。また、江古田原古戦場付近には、この合戦の戦死者を葬ったとされるお、経塚(経塚地蔵)をはじめ「豊島塚」が点在していたとされ、一部は現在も名残りを留めています。
    井上円了が哲学堂を建設するのは、1904年(明治37年)からですが、哲学堂開設前の「今昔マップ」1896~1909年地図を見ると、葛谷御霊神社西側の道は描かれていませんので、1896~1909年地図に近い形で迂回してみました。迂回して中野通り/新青梅街道交差点を北上、野方配水塔横を通り、中野通り/目白通りを抜け、千川通りに出ます、千川上水はこの交差点で北上しますが、この交差点に千川上水落合分水(水番所跡)がありました。西武池袋線踏切りを通過して、しばらくは千川上水跡を追います。千早築樋千早4丁目庚申塔千川親水公園長崎分水跡を過ぎ、要町三丁目交差点にでます。千川上水はこの先、東京都立板橋高等学校手前で分かれます。
    要町三丁目交差点から先に古道があり、大谷口1丁目53地先から入り、大谷口1丁目14地先で新道に出ます。
    その先、大山西町63-3地先で旧道に入り、川越街道を横断して大山町57地先で再度旧道に入ります。明治44年の「東京府下北豊島郡板橋全図」を見るとこの時代にも、石神井川に架かる橋は、旧中山道の西の藍染通りに架かる橋以外描かれていません。
    この橋は、文久元年(1861)の和宮(かずのみや)下向の際には五十宮(いそのみや)などの姫君下向の例にならい、榎を避ける為の迂回路が作られました。そのルートは、中仙道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る1kmの道のりに架かる橋と思われます。
    明治44年にも橋が描かれていませんので、当然往古には橋はなかったと思われますので、ここから先は「今昔マップ」1896~1909年地図に描かれる通れそうな道をルートに設定しました。
    青面金剛庚申塔、轡(くつわ)神社を過ぎ、「今昔マップ」1896~1909年地図に描かれる突き当りとおぼしき地点から、旧川越街道に出て、六蔵祠、下頭橋を過ぎて、南ときわ通りに入ります。この先には、創建年代は明らかになっていませんが、一説では、後深草天皇の時代(1243-1304年)に創建されたとされている、板橋天祖神社があります。その手前南常盤台1丁目交差点を右折します。その交差点南方向、環八通りと川越街道交点南に、江戸時代に板橋天祖神社と東新町氷川神社の別当寺であった長命寺があり、長命寺周辺は、室町時代「お東山」にあったといわれる板橋城跡の伝承地の一つでもあるとされています。また、その西方向に鎌倉幕府の執権北条時頼によって再興されされたと伝えられている安養院があります。
    前南常盤台1丁目交差点を右折し、東部東上線ときわ台駅南踏切りを渡ります。渡った先は、東武鉄道常盤台分譲住宅地です。「今昔マップ」1896~1909年地図を見ると、分譲予定地に、板橋天祖神社の右方向、字向屋敷上方向の二本の古道が描かれています。また、「東京府下北豊島郡上板橋村全図」の地図四つ切右上・向屋敷左に古道が描かれ、地図上端の乗合自動車(池袋-年間線)は、富士見街道です。富士見街道と天祖神社間が常盤台住宅地の分譲地ですが、地図は常盤台住宅地の分譲前で、武蔵常盤駅(現在のときわ台駅)も描かれていません。
    常盤台の生い立ち」による常盤台の紹介
    『常盤台一帯の地は、旧地名を「北豊島郡上板橋村字向屋敷/字原」といい、住宅地として開発される以前は、 富士見街道沿いに民家が2,3軒あるだけの「前野っ原」と呼ばれる農地でした。大正3年に東上鉄道(現在の 東武東上線)が開通しましたが停車駅がないため、昭和初期に東武鉄道が一帯を買収した(西新井-上板橋を むすぶ西板線の操車場用地として)後も、しばらくは民間の飛行場として使われていたそうです。その後、 昭和10年に武蔵常盤駅(現在のときわ台駅)が開業し、翌年から常盤台住宅地の分譲が開始されました。』
    常盤台公園前交差点、富士見街道交差点、前野町交番前交差点を過ぎ、首都高速5号池袋線を潜ると、開基開山不詳ですが、建久年間(1190~1199年)に中興開基したと推定される古刹、長徳寺前(「今昔マップ」1896~1909年地図で大日堂が長徳寺です。)に出ます。長徳寺境内地を回り込み、長徳寺北で右折すると、中山道小豆沢交番西側交差点に出ます。
    交差点北側、南方向三筋目に、たび重なる荒川の洪水のために、江戸時代に坂下二丁目より現在地に移ったと伝えられ、徳川八代将軍の徳川吉宗が鷹狩の際に休憩の際に立ち寄ったと伝えられている、南蔵院があります。
    中山道小豆沢交番西側交差点を北上して、東京都道445号常盤台赤羽線に合流して、善徳寺前を通過してます。
    この付近、「今昔マップ」1896~1909年地図で見ると、善徳寺前に陸軍兵器補給廠赤羽火薬庫(北区桐ケ丘1丁・都営桐ヶ丘団地)が描かれ、その先には軍用貨物線(現赤羽緑道公園)、陸軍被服本廠(北赤羽台1・2丁目)が描かれています。陸軍被服本廠は、第二次世界大戦での敗戦後米軍に接収され、東京兵器補給廠の所属地となり、米軍住宅の赤羽ハイツが建設されました。返還後、赤羽台団地が造成され、現在は建て替え工事が進み、UR都市機構ヌーヴェル赤羽台へと生まれ変わっています。
    ヌーヴェル赤羽台の入り口、北区赤羽台2丁目4地先交差点で右折、その先赤羽台1丁目5地先で左折して北上し、旧板橋街道の坂道の一つとされるうつり坂を下り、東北上越新幹線、東北本線、京浜東北線高架下を通って宝幢院で鎌倉街道(都区内Aルート)と合流です。