多聞寺

マーカーは多聞寺です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で隅田村隅田と鐘淵紡績会社との間の「卍」が多聞寺です。地図を比較すると多聞寺と堀切が、荒川の移設改修により寸断され、接続先が堀切二丁目コミュニティ道路であることがわかります。

多聞寺
[真言宗智山派の多聞寺は、隅田山吉祥院と号します。創建年代は不詳ですが、天徳年間(957-960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたといいます。天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられます。本尊は、隅田川七福神の一つにもなっている毘沙門天です。茅葺の山門は区内最古の現存建造物で墨田区の指定文化財です。その他創建にまつわる妖怪狸を供養した狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨など多くの文化財を有しています。南葛八十八ヶ所霊場79番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場65番札所、荒綾八十八ヶ所霊場5番札所です。
多聞寺山門
多聞寺の山門は江戸時代中期に造られた区内最古の建造物です。切妻造四脚門で、現在では珍しくなった茅葺の屋根を持ちます。全体的には簡素な和様の造りで、控柱などに禅宗様の手法も見られます。虹梁・木鼻に刻まれた線の太さや深さ、素朴な文様は十八世紀を下らない建造を感じさせます。慶安二年(1649)に建立された山門ですが、その後焼失しました。過去帳には「享和三亥年二月酉ノ上刻出火、本堂、鐘楼、五智堂、庫裡、焼失四棟也、表門は不焼」とあり、この火災で焼失を免れたことから、遅くとも享和三年には再建されていたことになります。墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきました。こうした中で、多聞寺山門が現存することは、貴重であり、周囲の意匠との関連や相違を検討するうえでも重要な建造物と言えます。  (平成17年3月 墨田区教育委員会)
六地蔵坐像
この六地蔵像は総高150センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目の石は方形、三段目は蓮台、その上に、それぞれ60センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持ち物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んでいます。欠損や修復の跡が見られますが、僧覚誉理慶(利慶)が領主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます。隅田村地蔵講中の数年にわたる作業行為を知り得る貴重な資料といえます。六地蔵の製作年代は右から、正徳三年(1713)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年八月吉祥日、享保元年(1716)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています。  (平成4年3月 墨田区)  (「猫のあしあと」より)]

真言宗 智山派 隅田山 吉祥院 多聞寺ホームページ

多聞寺資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 角田川ヨリ綾瀬川迄」(各巻号コマ番号5/6・絵図右方向に多門寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 隅田川向島絵図」(絵図右下に多聞寺が描かれています。)

多聞寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向が多聞寺山門です。参道右の祠に阿弥陀如来像・子育て地蔵と弘法大師空海像が祀られています。

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