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弘福寺
[弘福寺(こうふくじ)は、東京都墨田区にある黄檗宗の寺院。山号は牛頭山。本尊は釈迦如来。隅田川七福神のうち布袋像を祀る。1673年(延宝元年)黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院である。江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。関東大震災で罹災したが、1933年(昭和8年)に再建された。 (wikipedia・弘福寺より)]
[新編武蔵風土記稿による弘福寺の縁起
弘福寺
黄檗宗山城国宇治萬福寺の末、牛頭山と号す。当寺元善左衛門村内香積山といへる小庵なりしが、黄檗二代木庵の弟子鉄牛延宝二年爰に移して山号寺号をも今の如く改め、堂舎寮坊善美を盡して落成しければ、大家の帰依日々に増加し繁栄せり。開基は稲葉美濃守正則なり。元禄九年歿し湖信院泰應元如と法贈す。本尊釈迦恵心の作長三尺坐像なり。脇士迦葉阿難も同作にて立像長三尺五寸、延宝五年十一月二十一日厳有院殿(徳川家綱)御遊狩の時当寺に渡御ありて、堂舎の落成を上蘭まし々々白銀許多を賜ひ、夫より後たひ々々御膳所となれり。
総門。今は廃せり。
天王閣。弘福寺の三字を扁す。木庵の筆なり。左右に道泰玉麟現瑞林威金鳳来儀の聯あり。又正面に布袋後面の中央に韋駄天文殊、四隅に四天王を置り。共に運慶の作。楼上天王閣の三字を掲ぐ。是も鉄牛の筆也。
佛殿。大雄殿の扁額あり。隠元筆。又本尊の上に大威徳の三字を扁す。両柱の聯に見相傾身敢保未忘法相、揮金布地自然偏界黄金の数字あり。又堂中左右に武陵界上重開弘福禅林人々慶喜、牛首山中新建大雄寶殿水水騰依、支那沙門激高泉敬題の聯あり。本尊の左右聯に漢天日月久晦祖燈重煜□、旱地雲雷普霑林木盡華栄、黄檗木庵書とあり。
禅堂。選佛場の扁額を掛く。内に観音地蔵を安す。藤村忠円といへるか作、外に開山鉄牛の木像二世鉄関の画像を板に彫れるあり。聯あり正字桑域初日真見檗峯嫡孫当山第三代嗣法門人程瑞鳳拝額とあり。慈観堂の三字を扁す鉄牛の書なり。
斎堂。今は蹟のみなり。
開山堂。これも今は廃せり。
鐘楼。鉄牛の筆鐘楼と扁せり。貞享五年鐘銘あり左にのす。(中略)
経蔵。聖相の二字を扁す。思蘆舎那教蔵円満功徳薩婆若海疑礼了悟佛心の聯あり。
大神宮八幡春日合社。
八僧稲荷社。
箱根権現浅間熊野合社。
建凌岱墓碑。境内墓所にあり。建部綾足字孟喬寒葉斎と称す。俳諧歌の古事記に片歌とみえたるを考へ唱へ、其道に於ては珠に賞せられしなり。後上京して花山宮に従ひ遊へる頃片歌道主の号を与へられ、安永甲午の年三月十八日五十余にて死せり。此碑は翌乙未の年門人建由明なと称せるもの建し由、加藤千蔭仮名にて記したり。此余境内に荻生茂卿の門弟林義寛井上喬卿等の碑石あり。(新編武蔵風土記稿より) (「弘福寺|墨田区向島にある黄檗宗寺院 – 猫の足あと」より)]
弘福寺資料リンク
「江戸御場絵図」(絵図は東西方向を軸に描かれていますので、絵図を回転して南北を軸にすると見やすくなります、南北軸にした絵図で、四つ切左下・荒川の右下に移転前の牛御前社と弘福寺及び御膳所が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 牛御前辺」(各巻号コマ番号2/6・絵図右上に弘福寺が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルライブラリー – 〔江戸切絵図〕. 隅田川向島絵図」(絵図右端中央付近・古川上に弘福寺が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「弘福禅寺」(19-9)、「牛頭山弘福寺解説-1・右ページ6行目より」(19-8)、「牛頭山弘福寺解説-2・右ページ左から4行目まで」(19-11)
弘福禅寺(拡大図)
カメラ北西方向が弘福寺山門です。