白髭神社

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マーカーは白髭神社です。

白髭神社
[白髭神社は、天暦5年(951年)に慈恵大師が、近江国白髭大明神を分祀勧請したと伝えられています。天正19年(1592年)には、徳川将軍家より神領2石を寄進されました。社伝は元治元年の造立で、隅田川七福神寿老神としても親しまれています。岩瀬鴎所(岩瀬忠震)の墓碑がある。
新編武蔵風土記稿による白鬚神社の由緒
(寺嶋村附持添新田)白鬚社。
村の鎮守なり。相傳ふ当社は天暦5年元三大師関東下向の時、江州志賀軍打颪より勧請し、天正19年社領2石を給ひし由。されと今は免除の地なく社地のみ僅の除地なり。神体は元三大師の作長1尺の立像也。左右に諏訪と稲荷を安す。本地不動は坐像長4寸許興教大師の作。今は別当寺の本山蓮花寺に在り。
別当西蔵院
新義真言宗村内蓮花寺末、白鬚山と号す。大永元年の起立なり。当寺に桑原中納言と言へる人納めし雷除日丸天満宮を安す、坐像にて長8、9寸。
諏訪社、稲荷社。 (新編武蔵風土記稿より)  (「猫のあしあと」より)]

[岩瀬鴎所の墓碑
江戸時代末期の外交家。文政元年江戸に生まれました。名は忠震で、鴎所の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭設楽貞夫の第三子で、天保11年(1840)、旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永2年(1849)老中阿部正弘から目付に抜擢されました。鴎所は昌平坂学問所で漢学を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国に事情認識においては鴎所が一番といわれました。江戸幕府鎖国政策を非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講武所蕃書調所を設け海軍伝習を始めるのにも参画しました。後に徳川将軍家の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政6年8月に官位を奪われ、蟄居を命ぜられました。その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年(1861)7月16日、44歳で没しました 平成16年3月 墨田区教育委員会]

白髭神社資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 角田川ヨリ綾瀬川迄」(各巻号コマ番号4/6・絵図下中央に蓮花寺、西蔵院、西蔵院下に白鬚大明神が描かれています。)

国立国会図書館デジタルライブラリー – 〔江戸切絵図〕. 隅田川向島絵図」(絵図4つ切り右下の中央付近にシラヒゲと白髭神社が描かれています。)

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・白鬚明神社

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「白鬚明神社」(19-15)、「白鬚明神社解説・右ページ左から3行目より」(19-14)

白鬚神社(東向島) – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向が白髭神社です。

白髭神社拝殿前のカメラです。

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