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鐘ヶ淵
[『鐘ヶ淵』の地名は、隅田川がこの辺で直角に曲り、これが大工の使う指矩に似ていることから名付けられたと言われる。又、隅田川西岸、石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際、その梵鐘が川に落ち、今にいたるまで引き揚げられずに沈んでいるという伝説から名付けられたとも言われている。 (「138. 名所江戸百景69 綾瀬川鐘ヶ淵」より]
綾瀬川
[綾瀬川は足立区では花畑運河で中川と連絡する。葛飾区で荒川放水路の左に沿って流れ、葛飾区東四つ木で中川に合流する。 荒川放水路が開削される前は、現在の旧綾瀬川を経由し隅田川に合流していた。
江戸時代初めまで、綾瀬川中下流は低湿地で通行が困難であった。また大雨が降るたびに川筋が変わり、一定しないことから「あやし川」と呼ばれ、後に「綾瀬川」と変わっていったと伝えられる。まず伊奈忠次らによって堤が整備され、伊奈忠治らによって流量を調整するために武蔵国足立郡内匠新田(現・足立区南花畑の内匠橋付近)-葛飾郡小菅間に平行して新綾瀬川が開削された(現在の綾瀬川はこの新しい流路を指す)。
当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっていた。寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まり、おそらくこれにあわせて天和3年(1683年)に綾瀬川の直線化の工事が行なわれた。これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになった。 (wikipedia・綾瀬川より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 角田川ヨリ綾瀬川迄」(各巻号コマ番号5/6・絵図中央に綾瀬川(鐘ヶ淵)が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルライブラリー – 〔江戸切絵図〕. 隅田川向島絵図」(絵図右下にあやせ川と記述され、隅田川と合流する川が綾瀬川で、合流点が鐘ヶ淵です。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「鐘ヶ淵丹鳥の池綾瀬川」(19-28)、「内川解説、丹頂池解説・右ページ中程から」(19-27)、「鐘の淵解説・左ページ1行目より」(19-30)
鐘ヶ淵丹鳥の池綾瀬川(拡大図)
「江戸遊覧花暦. 巻之1-4 / 岡山鳥 編輯 ; [長谷川雪旦] [画]」・「綾瀬川合歓木花」(2-16)、「綾瀬川解説-1・左ページ左から2行目より」(2-15)、「綾瀬川解説-2・右ページ3行目まで」(2-17)
絵本江戸土産 – 綾瀬川(拡大図)
名所江戸百景[歌川(安藤)広重](綾瀬川鐘か渕・wikipedia-photo)
カメラ位置は旧綾瀬川に架かる綾瀬橋で、カメラ南西方向・隅田川との交点が鐘ヶ淵です。