中村彝(つね)アトリエ記念館

マーカーは中村彝(つね)アトリエ記念館です。

中村彝(つね)アトリエ記念館
[中村彝(つね)は大正期に活躍した洋画家で、大正5年(1916)、新宿区下落合にアトリエを新築しました。この下落合に残る彝のアトリエを復元・整備し、平成25年3月17日(日)から新宿区立中村彝アトリエ記念館として公開しました。
管理棟(展示室)
 展示室では解説パネルで彝の生涯や画業を紹介しています。
 代表的な作品を高精細度写真でご覧いただけます。
アトリエ
 床や天井、壁の腰板など、大正5年当時の建築部材を利用して復元しています。
 室内には彝の使用したイーゼルや家具・調度品(複製)を展示しています。
居間
 彝の生活の空間であり、療養の日々を送った部屋でもあります。この部屋では、映像で彝の生涯や作品を紹介しています。  (「新宿区立中村彝アトリエ記念館-新宿歴史博物館」より)]

中村彝
[中村 彝(なかむら つね、1887年7月3日 – 1924年12月24日)は、大正期にかけての洋画家である。
年譜
●1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれる。男3人女2人の5人兄弟の末子であったが、兄2人と姉1人は彝が10代の時に相次いで亡くなる。父は彝が生まれた翌年に没しており、母も彝が11歳(満年齢、以下同)の時に没した。
●1904年(明治37年)、祖母が死に、唯一生き残った2番目の姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり、一人暮らしを余儀なくされる。彝自身も結核を病み、療養のため学校(陸軍中央幼年学校)を中退した。
●1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に赴き、彝はこの地で水彩スケッチを始めた。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返している。
●1909年(明治42年)第3回文展に初入選。
●1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり、この作品は実業家の今村繁三が購入する。
●1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになる。相馬夫妻は、彫刻家・荻原碌山(おぎわらろくざん)や中原悌二郎をはじめ多くの芸術家を支援していた。
●1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女・俊子をモデルにした裸婦像が数点あり、2人の親密な関係が伺われる。彝は、俊子に求婚するが結核を理由に反対され、この失恋が元で煩悶することになる。
●1916年 新宿区下落合にアトリエを構える。以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでの創作を行う。
●1920年(大正9年)には前述の今村繁三邸でルノワールの作品を実見し、また院展の特別展示でルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けた。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられる。ワシーリー・エロシェンコ(1890年 – 1952年)はアジア各地を放浪していたロシア人の盲目の詩人で、先述の新宿・中村屋の世話になっていた。
●1921年(大正10年)には病状が悪化し、同年7月には遺書を認めている。彝は1921年(大正10年)から翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していない。
●1924年(大正13年)、37歳で死去。死の直前の1923年(大正12年)~1924年(大正13年)に描かれた『頭蓋骨を持てる自画像』は、若い頃の彝の自画像とは別人のように頬がこけ、眼の落ち窪んだ相貌になっているが、その表情には苦行僧か聖人のような澄みきった境地が感じ取れる。絶筆は花を生けた花瓶を描いた『静物』(未完)。
●2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。
自画像(1909年)・wikipedia-photo、エロシェンコ像(1920年)・wikipedia-photo  (wikipedia・中村彝より)]

中村彝アトリエ記念館 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が中村彝(つね)アトリエ記念館です。