マーカーは安志藩小笠原家下屋敷跡です。
関連リンク – 安志藩小笠原家上屋敷跡(文京区役所)、安志藩小笠原家下屋敷跡(東京大学本郷構内の遺跡)、安志藩小笠原家深川下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP810・コマ番号449/553に安志藩屋敷の変遷について記載されています。「下屋敷 目白臺」がこの地になります。
[目白台は文京区西部地域であり、北に豊島区雑司ヶ谷、南に関口、西は豊島区高田、東は大塚・音羽に接する。公園や緑が多い地域である。高台の閑静な文教地区であり、また古くは大名屋敷であった。現在の東大病院分院跡地は松平出羽守の下屋敷、日本女子大学附属豊明小学校は大岡主膳正の下屋敷、日本女子大学附属豊明幼稚園は鳥羽藩の下屋敷、肥後細川庭園(旧:新江戸川公園)は細川家の下屋敷だった所である。
目白台一丁目には、田中角栄元内閣総理大臣私邸(目白御殿→田中眞紀子私邸、現在、目白通り側の土地の一部が文京区立目白台運動公園として再開発)、目白台運動公園(元国家公務員共済組合連合会運動場・安志藩小笠原家下屋敷跡)、和敬塾・永青文庫(熊本藩細川家下屋敷跡)がある。 (wikipedia・目白台より)]
[江戸時代に安志藩小笠原家下屋敷及び幕臣屋敷地であった文京区立目白台運動公園の敷地は、明治から昭和初期まで、元・細川邸の大きな洋館が建っていた目白崖線上の一部で、2005年1月まで国家公務員共済組合連合会(KKR)の目白運動場だっだところで、文京区が相続税として物納された旧・田中角栄邸の一部も含む、計30,381平方メートル(9,206坪)の広大な敷地を買い取り、目白台運動公園として、平成21年(2009年)にオープンしています。]
小笠原忠幹
[小笠原 忠幹(おがさわら ただよし)は、播磨国安志藩6代藩主、のち豊前国小倉藩9代藩主。官位-従五位下兵部少輔、信濃守、従四位下大膳大夫、侍従、左京大夫
天保10年(1839年)12月14日、実父・長武の死去により、家督を相続し安志藩主となった。天保13年(1842年)10月15日、12代将軍・徳川家慶に拝謁する。同年11月1日、従五位下兵部少輔に叙任する。後に信濃守に改める。
万延元年(1860年)11月6日、本家の豊前国小倉藩主・小笠原忠嘉の死去により、末期養子として家督を相続し、小倉藩主となった。それに伴い、長男・貞孚が安志藩主になった。 (wikipedia・小笠原忠幹より)]
小笠原貞孚
[小笠原 貞孚(おがさわら さだざね/さだちか)は、嘉永3年(1850年)11月4日、6代藩主・小笠原忠幹の長男として生まれる。万延元年(1860年)11月6日、父・貞幹(忠幹と改名)が本家豊前小倉藩を継いだため、嫡男である貞孚が代わって安志藩主となる。
幕末期には本家とともに元治元年(1864年)の第一次長州征討や慶応2年(1866年)の第二次長州征討に参加している。第二次長州征討では、小笠原忠忱、小笠原貞正らとともに長州藩と戦うものの、敗れて肥後にまで撤退した。
慶応4年(1868年)1月17日、新政府に対し、病気のために重臣を上洛させることを願い、2月21日、重臣を上洛させる。同年4月26日、貞孚が上洛する。同年閏4月11日、従五位下信濃守に叙任する。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還で知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。 (wikipedia・小笠原貞孚より)]
「国際日本文化研究センター – 嘉永新鐫雜司ケ谷音羽繪圖(安政4・1857年)」(絵図四つ切左下に小笠原信濃守(小笠原忠幹)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [18]拾九利(嘉永五年・1852年)」(コマ番号5/7・絵図四つ切左下に小笠原信濃守(小笠原忠幹)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は目白台運動公園多目的広場前で、カメラ南方向付近に安志藩小笠原家下屋敷表門があったと思われます。