岩槻藩大岡家(大岡忠光)下屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP383・コマ番号235/553から岩槻藩屋敷の変遷について記載されています。P387・コマ番号237/553「抱屋敷 高田 小石川区高田豊川町」がこの地になります。

大岡忠光
[大岡 忠光(おおおか ただみつ)は、江戸時代中期の旗本大名江戸幕府御側御用人若年寄を務め、第9代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総勝浦藩主、武蔵岩槻藩初代藩主。
300石の旗本・大岡忠利(助七郎)の長男で、大岡忠房家4代当主。同時代に江戸南町奉行として活躍した大岡忠相(後に三河西大平藩主、いわゆる大岡越前)とは、ともに大岡忠吉の子孫に当たる関係であり、個人的にも親交があった。
享保7年(1722年)に第8代将軍徳川吉宗に御目見する。享保9年(1724年)8月に将軍世子(後の第9代将軍)家重の小姓となり、江戸城二の丸へ詰める。翌年には西の丸へ詰め、以後家重に側近として仕える。享保12年(1727年)従五位下出雲守に叙任。享保18年(1733年)、800石の地方知行取となる。
延享2年(1745年)の家重の将軍就任以後、家重の幼い頃から近侍していた忠光は、不明瞭な家重の言葉を唯一理解できたため信頼があつく、その側近として異例の出世を遂げた。宝暦元年(1751年)上総勝浦藩1万石の大名に取り立てられ、同4年奥兼帯の若年寄に昇進し、5,000石加増。同6年には吉宗時代に廃止されていた側用人に就任して従四位下に昇り、さらに5,000石を加増され、合計2万石を得て武蔵岩槻藩主に封じられた。
人物・逸話
将軍の言葉を意のままに伝えることができたにもかかわらず、決して奢ることや幕政に口を挟むようなこともなかったという。遠縁で同じく旗本から大名へ出世した大岡忠相に身のあり方などを聞いていたという。
当時の忠光を知る逸話として、当時オランダ商館長をしていたイサーク・ティチングが、忠光のことを著書『将軍列伝』の中で次のように書いている。
「家重は大岡出雲守という真実の友を持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人の過失も咎めなかった。あらゆる点で大岡は上にあげた吉宗お気に入りの3人の家来(吉宗の御側御用取次であった加納久通小笠原胤次、渋谷和泉の3人の事)をお手本にしていた。それで、その死後、大岡について次のような歌ができたのである。
『大方は出雲のほかにかみはなし』
その意味は、要するに『出雲(=忠光)のような神はない云々』ということであるが、詠み人は、出雲(=忠光)の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。(なぜなら、)『我々は皆、そのこと(忠光の人柄と業績)をよく見て知っている』といい、また、『そして涙を流して彼(=忠光)の思い出に感謝を捧げるのだ』ともいっている。」— イサーク・ティチング『将軍列伝』
宝暦6年(1756年)に岩槻藩主となった忠光は、その4年後に死去した。しかしその4年間にオランダから伝わった木綿種を領内で試植したり、砂糖種の蒔付けや栗や梅の植樹を奨励し、産業発展に尽くした。また、家中や領内で70歳以上の老人がいれば、全てに金を与えて人心を収攬した。さらに忠光は家臣の内海平十郎に対して「民を治める道は重要で、精一杯取り計らい、百姓が難儀しないように治めよ」と下命したという(『得祥院様御行状誌』)。  (wikipedia・大岡忠光より)]

日無坂
[日無坂(ひなしさか)は文京区目白台1丁目と豊島区高田1丁目の間にある坂。目白通りから入り、富士見坂の途中から分岐している階段坂。江戸時代からあり、樹木が生い茂り日中でも日が当たらなかったことから、名づけられた。古くから記載が見られ、たとえば江戸切絵図にもその存在を認めることができる。  (wikipedia・日無坂より)]

岩槻藩大岡家(大岡忠光)下屋敷資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 音羽絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図左中程に大岡主膳正が岩槻藩大岡家下屋敷で、屋敷地の左側にヒナシサカと描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 5号」(コマ番号2/6・四つ切右下に「大岡兵庫頭抱屋敷」が描かれています。)

カメラ南南西方向が富士見坂・日無坂で富士見坂の先左側に日無坂が分岐し、真直ぐ方向が富士見坂で、日無坂の東側一帯・カメラ南南東方向に大岡主膳正(大岡忠光)下屋敷跡がありました。

かめら南方向は豊坂で、坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸時代この一帯は、坂右が大岡主膳正の下屋敷で、坂左は稲垣摂津守(鳥羽藩)下屋敷で、明治になって開発された坂です。

カメラ北東方向が豊川稲荷です。

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