岩槻藩大岡家(大岡忠光)下屋敷跡

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岩槻藩大岡家(大岡忠光)下屋敷跡
[岩槻藩は大岡藩主家時代に藩政が定着し、第3代藩主・大岡忠要の時代に起こった天明の大飢饉で藩内は甚大な被害を受け、その後も天災が相次いで藩政は多難を極め、財政窮乏化も進んだ。このため忠要は有能な人材登用、厳しい倹約などによる藩政改革を実施する。第5代藩主・大岡忠正の時代には藩校・勤学所と武芸稽古所が設置された。第6代藩主・大岡忠固奏者番若年寄に栄進したが、この頃の米価昂騰から領内で大規模な百姓一揆が起こった。
その後、アヘン戦争が敗れた余波から、幕命により海防強化を命じられ、大砲鋳造などで財政が逼迫した。しかし弘化2年(1845年)4月1日、前年に炎上した江戸城本丸の普請奉行を務めた功績により、3000石を加増されている。忠固は嘉永5年(1852年)7月4日に死去し、後を子の大岡忠恕が継いだ。忠恕の時代には幕末期の動乱から天災による被害、さらには岩槻城の本丸焼失などの不幸が相次いで財政は破綻寸前となった。このような中で忠恕は慶応2年(1866年)3月29日に隠居して家督を長男の大岡忠貫に譲った。明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府に帰順して幕府軍追討に功を挙げた。翌年の版籍奉還で忠貫は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で岩槻藩は廃藩となる。大岡氏はその後、子爵に列せられた。  (wikipedia・岩槻藩より)]

日無坂
[日無坂(ひなしさか)は文京区目白台1丁目と豊島区高田1丁目の間にある坂。目白通りから入り、富士見坂の途中から分岐している階段坂。江戸時代からあり、樹木が生い茂り日中でも日が当たらなかったことから、名づけられた。古くから記載が見られ、たとえば江戸切絵図にもその存在を認めることができる。  (wikipedia・日無坂より)]

大岡忠光
[大岡 忠光(おおおか ただみつ)は、江戸時代中期の大名。江戸幕府御側御用人若年寄を務め、第9代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総国勝浦藩主、武蔵国岩槻藩初代藩主。
300石の旗本・大岡忠利(助七郎)の長男で、大岡忠房家4代当主。同時代に江戸南町奉行として活躍した大岡忠相(後に三河国西大平藩主)とは、ともに大岡忠世の子孫に当たる関係であり、個人的にも親交があった。
享保7年(1722年)に第8代将軍徳川吉宗に御目見得。享保9年(1724年)8月には将軍家世子(後の第9代将軍)・家重の小姓となり、江戸城二の丸へ詰める。翌年には西の丸へ詰め、以後家重に側近として仕える。享保12年(1724年)従五位下出雲守に叙任。享保18年(1733年)、800石の地方知行取となる。
延享2年(1745年)の家重の第9代将軍就任以後、家重の幼い頃から近侍していた忠光は、不明瞭な家重の言葉を唯一理解できたため、その側近として異例の出世を遂げた。宝暦元年(1751年)上総勝浦藩1万石の大名に取り立てられ、同4年奥兼帯の若年寄に昇進し、5,000石加増。同6年には吉宗時代に廃止されていた側用人に就任して従四位下に昇り、さらに5,000石を加増され、合計2万石を得て武蔵岩槻藩主に封じられた。  (wikipedia・大岡忠光より)]

岩槻藩大岡家(大岡忠光)下屋敷資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 音羽絵図」(絵図左中程に大岡主膳正が岩槻藩大岡家下屋敷で、屋敷地の左側にヒナシサカと描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 5号」(コマ番号2/6・四つ切右下に「大岡兵庫頭抱屋敷」が描かれています。)

カメラ南南西方向が富士見坂・日無坂で富士見坂の先左側に日無坂が分岐し、真直ぐ方向が富士見坂で、日無坂の東側一帯・カメラ南南東方向に大岡主膳正(大岡忠光)下屋敷跡がありました。

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