マーカーは東池袋中央公園です。
巣鴨拘置所
[巣鴨プリズン(英語: Sugamo Prison)は、第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人(戦犯)の収容施設である。東京都豊島区西巣鴨(現・豊島区東池袋)の東京拘置所施設を接収し、使用した。「巣鴨拘置所」「巣鴨刑務所」などと呼ばれたこともある。
極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名の死刑が執行(1948年(昭和23年)12月23日)された場所としても知られる。
前史
かつてこの地には巣鴨監獄・巣鴨刑務所(1922年改称)があった。関東大震災(1923年)で被害を受けた巣鴨刑務所は、1935年に東京府北多摩郡府中町(現・東京都府中市)に移転し、府中刑務所となる。その跡地に庁舎が新築され、1937年、未決囚を主に収容する市谷刑務所が移転し、普通刑務所と区別するため「東京拘置所」と改称された。なお、敷地は巣鴨刑務所時代の約3分の1に縮小された。
敷地の北西には処刑場があり、第二次世界大戦中の1944年には、ゾルゲ事件の主犯とされるリヒャルト・ゾルゲおよび尾崎秀実の死刑が執行された。彼らのほか、当時の同拘置所には主として共産主義者等のいわゆる思想犯や、反戦運動に関わった宗教家等が拘置されていた。
米軍管轄下のスガモプリズン
第二次世界大戦で日本は敗れ、連合国軍の占領下に置かれた。東京拘置所は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって接収されて「スガモプリズン」と呼ばれ、戦争犯罪容疑者が多数収容された。処刑場入口の13号鉄扉を通って、BC級戦犯52名が処刑された。
後述するように、スガモプリズンはその後取り壊されて、跡地はサンシャインシティと東池袋中央公園になった。この再開発を手掛けた新都市開発センター(現:サンシャインシティ)により、この13号扉は法務省に寄付され、矯正研修所などを経て2018年時点でも保管されている。
占領軍の主体であるアメリカ軍は情報戦の一環として、監房に、装置を密かに取り付け、戦犯たちの会話を盗聴していた事が後年明かされている。
1947年(昭和22年)2月、既決囚の労働が本格化し、A級戦犯・60歳以上の高齢者・病人以外は全て就労を命じられた。プリズン周辺の道路整備や運動場、農園、兵舎・将校用宿舎建設等の重労働を命じられ、午前と午後に1回ずつある5分の休憩と昼食時の休憩時にしか休めない。私物は一切禁止で、全て制服着用で行わなければならない。長い拘禁生活と裁判の疲労で、体力の落ちた戦犯達には重労働であり、「こんなことならいっそ死んでしまえばよかった」との声もあった。
この重労働が2年続き、建設を命じられた施設の完成に至ると、戦犯たちは信頼を勝ち取り、減刑などの恩恵を受けた。新聞・雑誌・本などの閲覧、上野図書館からの書籍借り出しも許可された。ラジオも定期聴取でき、映画も週に1回鑑賞できた。
1948年(昭和23年)12月23日には、極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名のA級戦犯の死刑も執行された。
1950年(昭和25年)から始まった朝鮮戦争で多数の米兵が出征するため、1950年8月、日本人刑務官が着任。米軍の監理下で警備にあたった。なお、最も収容者数が多かったのは1950年1月時点で、1862人の戦犯が収容されていた。
日本移管後
1952年4月、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により日本に移管され、引き続き戦犯を収容していた。以後、正式には「巣鴨刑務所」となったが、一般に「巣鴨プリズン」と呼ばれた。
1958年5月、最後の戦犯18名が釈放され、巣鴨刑務所は閉鎖。東京拘置所が巣鴨に復元された。
法務省に絞首刑者が入った巣鴨プリズン13号扉と遺体が出された13号A扉が保管されている。 (wikipedia・巣鴨拘置所より)]
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年地図で巣鴨監獄・巣鴨刑務所の敷地、1944~1954年で巣鴨拘置所の範囲が確認できます。
巣鴨拘置所跡に造成された東池袋中央公園内のカメラです。