常陸宍戸藩松平(水戸)家下屋敷跡

マーカーは常陸宍戸藩松平(水戸)家下屋敷跡です。

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[常陸宍戸藩松平(水戸)家下屋敷は高田四家町(現豊島区高田1丁目40の内)の南側、日無坂稲荷坂の間にあり、日無坂と稲荷坂の間の富士見坂は明治以降に出来た坂です。また、日無坂は豊島区と文京区の境界になります。
現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂の場所が上屋敷跡になります。]

松平頼徳
[松平 頼徳(まつだいら よりのり)は、常陸国宍戸藩9代藩主。官位は従五位下・大炊頭。
天保2年4月3日(1831年5月14日)、水戸藩一門家老松平頼位の長男として誕生する。母は松平絲(実父は常陸水戸藩主・徳川宗翰の八男・松平保福。養父は松平頼善)。幼名は豊太郎。天保10年(1839年)、父の頼位は生家の家督を継ぎ、宍戸藩8代藩主となった。
弘化3年9月21日(1846年11月9日)、父の隠居により跡を継ぎ、同年12月、従五位下大炊頭を賜わる。父と共に本家水戸藩の徳川慶篤の補佐を務める。
元治元年8月4日(1864年9月4日)、幕府の命により水戸藩主の名代として水戸表の騒乱の平定に出発する。しかし、水戸城の入城に失敗した上、頼徳にも天狗党に同情的な部分があったため、不本意ながら市川三左衛門らの諸生党と那珂湊ほかで交戦してしまい、幕府追討軍総括田沼意尊より責任を追及される。頼徳は田沼にその経緯の実情を訴え嘆願しようとしたが、その機会は与えられず、「賊魁」という汚名を着せられた。同年10月5日(旧暦11月4日)に頼徳は水戸藩の支族・松平万次郎邸にて切腹させられた。享年34。家臣の多くも処刑され、父の頼位もこれに連座、官位を剥奪され、出羽国新庄藩預りの身となった。宍戸藩は改易され、江戸藩邸も幕府没収となった。頼徳の墓所は茨城県常陸太田市瑞龍山。辞世の句「思ひきや野田の案山子の竹の弓 引きも放たで朽ち果てんとは」
慶応4年(1868年)2月、新政府より宍戸藩の復旧を命ぜられ、父・頼位が再相続する。  (wikipedia・松平頼徳より)]

国際日本文化研究センター – 嘉永新鐫雜司ケ谷音羽繪圖(安政4・1857年)」(絵図中央左・高田四家町下、ヒナシサカ左に松平大炊守(松平頼徳)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [18]拾九利(嘉永五年・1852年)」(コマ番号5/7・絵図中央右上に松平大炊頭(松平頼徳)下屋敷、同人祖母善智院抱屋敷が描かれています。)

カメラ位置は稲荷坂上の稲荷坂 稲荷神社前で、カメラ南方向が稲荷坂で、この坂に面して常陸宍戸藩松平(水戸)家下屋敷表門があったようです。