柳原白蓮旧宅

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柳原白蓮旧宅
[大正時代に、そのドラマチックな生涯を「芸術と恋に生きた女性」とうたわれた女流歌人、柳原白蓮。彼女が駆け落ちした相手である宮崎龍介と暮らした家が、柳原白蓮旧宅として保存されている。大正時代から昭和初期にかけてのがっしりした造りが第二次大戦時の空襲で焼けることもなくそのまま残されており、今も子孫が暮らしている。  (「柳原白蓮旧宅|豊島区エリアガイド|住みたい街がきっとみつかるエリア 」より)]

[柳原白蓮の母方の祖父、新見 正興(しんみ まさおき)は、幕末幕臣外国奉行として日米修好通商条約批准書を交換する正使の大役を帯びて渡米した。その当時の名乗りから、新見 豊前守(しんみ ぶぜんのかみ)としても知られる。
新見家は明治維新後の混乱の中で没落した。
正興死後の娘たち
正妻との間に娘が3人いたが、長女は北海道へ嫁ぎ、次女・ゑつと三女・りょうは奥津家の養女となり、そこから柳橋に芸者として売られた。姉妹は並んで歩くと日頃から美形に見慣れた柳橋界隈の人々も振り返るほどの艶姿であったという。二人とも芸で身を立て、姉のゑつは特に柳橋一の芸達といわれるほどだった。
りょうは16歳の時、伊藤博文柳原前光が落籍を競い、妾として前光に囲われる事になる。柳原本邸近くの家を与えられ、18歳で女児を出産したが、これが後の柳原白蓮である。女児は前光の正妻・初子に引き取られた。産後病がちになり、明治21年10月7日、21歳で死去。りょうの元で養われていた母は、姉のゑつの元へ引き取られた。
ゑつは吉原の顔役であった飯島三之助に病身の母ごと落籍され、一人息子の房次郎をもうける。房次郎が芸事を嫌ったことから、吉原の芸妓から見込みのある娘・とめを養女として迎え、奥津姓と芸を継がせた。房次郎の妻の思い出によれば、ゑつは武家のように礼儀に厳しい姑だったという。昭和19年、80歳で死去。
柳原家とは身分違いであることから、飯島家から憚って親戚付き合いはなかったが、白蓮は宮崎家の人になってから生母の墓を探し当て、従兄弟の房次郎とも交流している。  (wikipedia・新見正興より)]

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カメラ西南西方向が柳原白蓮旧宅です。