高田四家町

マーカーは高田四家町四ッ辻(高田一丁目交差点)です。

高田四家町
[東海道四谷怪談は江戸の雑司ヶ谷四谷町が舞台となっている。「四ッ家」は、下高田村の四つ辻にあった4軒の大きな造り酒屋だと思われるので、厳密にいえば幕府が採取した『御府内場末往還其外沿革図書』にあるとおり、下高田村の“高田四ッ家町”というのが本来の表現なのだろう。大南北と同時代を生きた金子直德による、寛政年間に記録された『和佳場の小図絵』の現代語訳版、海老沢了之介による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会/1958年)から、「四ッ家町」について引用してみよう。
『尾州公御門[戸山山荘跡(尾張藩徳川家下屋敷跡)]の所より北へ道があって四辻のあった所である。今の辻より東北の角が大澤三右衛門屋敷といい、草分け四軒の内の一軒である。いま一軒は東にあって蓮華寺領の地に住んでいた。それは大平七五郎、すなわち今は中町に住む豊島屋源右衛門跡の七五郎である。三軒目は新倉四郎右衛門であって川越道新倉から出ている。これは上町四郎右衛門の先祖であろう。四軒目は大たんご権兵衛といった者で、皆酒をつくり、或は売ったりしている。此処の字名を酒林と水張を載せているのはこのためである。/この四軒をのぞいた以外は皆とびとびの村家のみである。』
 幕末から明治期にかけて、「四ッ家」由来の4軒の家がクルクル入れ替わったようだ。ときに、名主中心の4軒になったり、そのときの有力者がメインの4軒になったりと、さまざまな付会や尾ひれが語られていたらしく、四ッ家創成期に在住していた肝心の造り酒屋4軒、すなわち四つ辻の北角にあった大澤三右衛門(下高田村)、その東側の大平七五郎、川越の新倉村出身の新倉四郎衛門Click!(雑司ヶ谷村)、そして大たんご権兵衛の4人は、一時期どこかへ追いやられていた。  (「お岩さんの家は目白のどこだ?:落合道人 Ochiai-Dojin:So-netブログ」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 音羽絵図」(絵図四つ切左上・阿部伊勢守下屋敷周辺が高田四家町、四家町、四家丁と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [20]拾九貞」(コマ番号4/13・地図右上に高田四家町四ッ辻の南側の高田四家町が描かれています。)
国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [27]貮拾利」(コマ番号7/7・地図上端中央に高田四家町四ッ辻の北側の高田四家町が描かれています。)

カメラ位置は高田四家町四ッ辻(高田一丁目交差点)で、カメラ北北東方向が鬼子母神表参道入口で、カメラ南方向が宿坂です。宿坂の西側、鬼子母神表参道入口の両サイドが高田四家町です。