「山の手空襲」追悼碑

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マーカーは「山の手空襲」追悼碑です。

「山の手空襲」追悼碑
[碑文
和をのぞむ
  太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲(東京空襲)があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
  表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
  戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。
  港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。
平成十九年一月
港区赤坂地区総合支所
区政六十周年記念事業実行委員会  (「総務省|一般戦災死没者の追悼|「山の手空襲」追悼碑」より)]

[「東京山の手大空襲」として知られる2日間にわたる空襲は24日が約560機のB29、投下された焼夷弾は3千600トン余り、25日は約500機、3千300トン余りと記録され、3月10日の空襲よりも徹底した爆撃で、赤坂や青山などの東京の 〝山の手〞(高台)が標的でした。死者は両日を合わせ、東京全体で4千人余り。東京大空襲に比べて死者が少なかったのには、いくつかの原因が指摘されています。住宅が密集している下町に比べ、山の手の住宅街は密度が低かったこと、下町は川が多く避難が困難であったが、山の手は起伏に富み、延焼が拡大しにくかったこと。また3月の空襲を教訓に、建物を強制的に取り壊して延焼を予防する「建物疎開」が行われていたこと、「防空法」という法律に基づく、市民の消火義務よりも避難を最優先する当局の方針転換などが挙げられています。
 とはいえ、芝・麻布・赤坂の3区を合わせて約750人の死者を出し、焼失家屋は約3万4千戸、一帯は焼け野原となりました。宮城と呼ばれていた皇居や霞ヶ関の官庁街などが焼失したのはこの時で、芝区では、増上寺の五重塔や徳川家の霊廟などが焼け落ちました。高輪に邸宅があった高松宮宣仁親王は5月26日の日記に、伊皿子(いさらご)坂から聖(ひじり)坂にかけて「スッカリヤケタ」、「赤坂ハ9分9厘ヤケタ」と記しています(『高松宮日記』第8巻)。
 表参道付近ではたくさんの人が逃遅れ、安田銀行(現・みずほ銀行青山支店)の前には死体の山ができたといわれています。その現場である北青山三丁目の表参道交差点前には「和をのぞむ」と題する追悼碑があります(平成19年に、区政60周年を記念して、赤坂地区総合支所が区民と協働で建立)。またその近くの善光寺東京別院には青山周辺で戦災により亡くなった方のために「戦災殉難者諸精霊供養塔」があり、戦争の悲惨さを伝えています(1966年建立)。  (「第1部「港区と戦争」(11ページ~51ページ)(PDF:5152KB)」より)]

慰霊碑 – Google Map 画像リンク

カメラ南南東方向に「山の手空襲」追悼碑があります。

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