マーカーは一関藩田村家下屋敷跡です。
関連リンク – 一関藩田村家上屋敷跡、一関藩田村家中屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP367・コマ番号227/553から一関藩屋敷の変遷について記載されています。P369・コマ番号228/553「下屋敷 青山百人町 赤坂区青山北町六丁目」がこの地になります。
田村建顕
[田村 建顕(たむら たつあき)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。陸奥国岩沼藩2代藩主、のち田村家一関藩初代藩主。官位は従五位下・因幡守。
明暦2年(1656年)5月8日、陸奥仙台藩一門・田村宗良の次男として誕生。幼名は千勝。
万治3年(1660年)、父・宗良が陸奥岩沼藩3万石の大名に取り立てられると、世子となる。寛文4年(1664年)2月21日、元服して宗永と名乗り、同年11月28日、4代将軍・徳川家綱に御目見する。
寛文10年(1670年)に従五位下・右京大夫に叙任され、延宝6年(1678年)に父の死去により家督を相続する。延宝9年(1681年)5月、岩沼から一関に移封された。宗永は学問に秀でていたため、5代将軍・徳川綱吉に重用され、元禄4年(1691年)には奥詰衆に取り立てられて譜代格となり、元禄5年(1692年)には奏者番を拝命する。同年大晦日、建顕に改名する。元禄6年(1693年)には城主格となり、元禄7年(1694年)8月21日には弟・顕寛が分家し旗本寄合席に列した。
元禄8年(1695年)に宮床伊達家当主の伊達村房(後の伊達吉村)を養子に迎えようとしたが、養子縁組を幕府に届け出る前に仙台藩主・伊達綱村の養子に変更されたため、翌年に丹波国系田村氏で奥医師の田村安栖家の分家にあたる旗本・田村顕当の五男である誠顕を養子に迎えた。
元禄14年(1701年)3月14日、播磨国赤穂藩主・浅野長矩が刃傷沙汰を起こし、即日切腹を命じられた。この時、一関藩が事件後の長矩の身柄を預かるよう命じられ、夕刻に芝の一関藩邸に長矩が護送されて来たが、それから一刻と経たないうちに大目付・庄田安利の指示があり、藩邸の庭で浅野長矩の切腹が執行された。
宝永2年(1705年)、因幡守に任官した。宝永5年(1708年)1月27日死去。享年53。誠顕が家督を相続した。
『土芥寇讎記』では素晴らしく良いとは言わないがかといって愚鈍とは言えず、慎み深く、「徳人」の隠れた姿、と賞賛されている。 (wikipedia・田村建顕より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – [江戸図正徳四(1714)年]」(コマ番号3/5・絵図四つ切右上・甲州道高井戸道の百人町上に田村下総守(田村誠顕)屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図中央左上・田村右京大夫(田村邦行)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は南青山五丁目交差点で、カメラ北方向Ao_(複合商業ビル)周辺が一関藩田村家下屋敷跡になると思われます。(一関藩田村家下屋敷跡範囲:港区北青山3丁目10~12)