三草藩丹羽家下屋敷跡・紀伊新宮藩水野家下屋敷跡(渋谷区立千駄谷小学校)

マーカーは渋谷区立千駄谷小学校です。

三草藩丹羽家関連リンク – 三草藩丹羽家上屋敷跡三草藩丹羽家中屋敷跡

紀伊新宮藩水野家関連リンク – 紀伊新宮藩水野家上屋敷跡

[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に『寛文年間(1661~1672) – このころ原宿に安房北条藩主屋代家拝領屋敷ができる。(※北条藩は屋代家が1638年-1712年、3代約70年にわたって治めたが、1711年に発生した万石騒動によって改易された。その後、屋代家は屋代氏の祖先の功績などを考慮されて3000俵の知行を与えられ、旗本として存続した。)
天明7年(1787) – 原宿の屋代家屋敷の一部が上知となり、遠州横須賀藩主西尾家下屋敷となる。天保11年(1840) – 原宿の西尾邸、播磨三草藩主丹羽家下屋敷となる。』との記述がある、この記述は三草藩丹羽家下屋敷についての記述と思われます。
この地と思われる場所に渋谷区立千駄谷小学校があります。「渋谷区史年表」では、「明治9年(1876)6月 – 千駄ヶ谷に公立千駄ヶ谷小学校(後の千駄ヶ谷尋常高等小学校)が設立される」と記述されていましたので、wikipedia・渋谷区立千駄谷小学校を見ると、
『千駄谷小学校の歴史は、昭和初期に再編された渋谷区内では旧渋谷小学校に次ぐ2番目の創立になる古い学校である。明治初期の学制に基づく小学教則により、当時本地域に居住していた華族の永井直諒、水野忠愛、堀田正頌の3子爵の発起により、本地区の有志がこれに協力した。さらに附近の私塾であった森標昌の森学校と小菅用八の経営する小菅学校の両私塾がその児童と共に合体して、1876年(明治9年)6月28日に南豊島郡千駄ヶ谷村二丁目384番地に千駄ヶ谷小学校は創設された。
この位置は内務省地理局明治21年出版の『東京実測全図』によれば、千駄ヶ谷八幡社の向かい側、現在の千駄ヶ谷二丁目37番地の角にあった。
沿革
1872年(明治5年)8月 – フランスの教育方法を基にして作られた教育令の公布があった。
1885年(明治8年)12月 – 官制改革により学校令と義務教育が始まった。
1876年(明治9年)6月28日 – 千駄ヶ谷学校として設立された。教育令公布以前に設立されたのは、渋谷、千駄ヶ谷、臨川の3小学校だった。』と記述されています。
南豊島郡千駄ヶ谷村二丁目384番地は紀伊新宮藩水野家下屋敷跡になると思われます。発起人の一人である水野忠愛は旧結城藩当主家で、その養嗣子に旧紀伊新宮藩第10代藩主・水野忠幹の五男である水野直がいる、そのような関係から384番地での設立となったと思われます。
その後、渋谷区立千駄谷小学校ホームページを見ると、「1911年(明治44年)10月 – 新校舎落成(現在地)延689坪」と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 青山辺場末絵図. [2](寛保延享之頃・1741年-1748年)」(コマ番号2/4・絵図中央右下、井伊掃部頭下に屋代左衛門と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 青山辺場末絵図. [1](天保十三年・1842年)[コマ番号7/10・絵図四つ切左上、井伊掃部頭上に丹羽若狭守(丹羽氏賢)と記述されています。右の松平美濃守(高崎藩)抱屋敷は、幕末に鳥取藩池田家屋敷地となり、その後東郷神社になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号2/5・絵図中央下、千駄ヶ谷八幡右に水野日向守(水野勝任)抱屋敷、その右下に丹羽長門守(丹羽氏中)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 千駄ヶ谷其外村々諸屋敷色分図. [3]」(コマ番号21/52・小田原藩下邸が小田原藩大久保家下屋敷で、その下の茶畑が三草藩丹羽家下屋敷跡になると思います。右に鳥取藩抱邸が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 東京府豐多摩郡内藤新宿町千駄ヶ谷町(1920.1)」(地図中央・字町内384-387番が紀伊新宮藩水野家下屋敷跡で、そこの384番に当初の学校が設立され、1911年(明治44年)10月に左下の千駄ヶ谷小学校地に移転したと思われます。この学校敷地周辺、字灰毛丸303番地から318番地くらいまでが三草藩丹羽家下屋敷跡になると思われます。)

カメラ東方向が渋谷区立千駄谷小学校です。

カメラ位置は鳩森八幡神社裏参道口前で、カメラ南西方向が紀伊新宮藩水野家下屋敷跡で、紀伊新宮藩水野家下屋敷跡になると思います。