二本松藩丹羽家下(中)屋敷跡

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丹羽光重
[丹羽 光重(にわ みつしげ)は、元和7年12月28日(1622年2月8日)、丹羽長重の三男として誕生。幼名は宮松丸。2人の異母兄が共に夭逝したため、寛永5年(1628年)に嫡子となる。寛永11年(1634年)12月19日、3代将軍・徳川家光より偏諱を賜って光重と名乗る。また、従五位下左京亮に叙任する。寛永14年(1637年)4月、父・長重の死去により白河藩主となる。寛永19年12月晦日、従四位下に昇進する。
寛永20年(1643年)7月4日、陸奥伊達郡安積郡へ移封されて、二本松に居城を構え、二本松藩初代藩主となる。また、陸奥国田村郡幕領1万5360石を預けられる。正保元年(1644年)4月10日、初めて二本松へお国入りする許可を得る。国替えに伴い藩の諸制度を定め、城郭や道路・城下町の大規模な整備事業を行った。光重は文化人としても知られ、茶道石州流片桐貞昌に学んで奥義を極めたり、絵画を狩野益信狩野常信に学んで狩野派画風の作品を描いたり、また華道や書道にも造詣が深かった。他にも高野山萬福寺の僧侶を招請し、後者に「烈祖図」や「十六羅漢図」を寄進する(共に現存)など、仏教や学問の普及に努めた。
万治元年(1658年)閏12月27日、侍従に任官する。延宝6年(1678年)8月6日、預かっていた陸奥田村郡の幕領を返還する。延宝7年4月7日、嫡子・長次に家督を譲って隠居した。隠居後は玉峰と称した。元禄14年(1701年)4月11日に死去した。享年80(満79歳没)。
逸話
浅野長矩松の廊下高家旗本吉良義央を切りつけた際(浅野長矩#殿中刃傷)、その報を聞いて「何故切りつけたのか?突きさえすれば殺せたものを!」(丹羽氏の刀術は突きが基本)と立腹し、煙管(キセル)で煙草盆の灰入れを叩き、凹ませたという。この時叩いた灰入れは丹羽氏18代当主・丹羽長聰が家財を二本松市に寄付する際に偶然発見した。なお、丹羽長重の娘が赤穂藩初代藩主浅野長直の正室であり、丹羽光重は浅野長矩の大叔父に当たる。  (wikipedia・丹羽光重より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [12]拾七下(嘉永元年・1848年)」(コマ番号6/7・中央左方向に丹羽左京大夫(丹羽長国)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央・「此辺長者ヶ丸」右に丹羽左京大夫(丹羽長国)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は青山 長者丸通り・東京都港区南青山3丁目3-14地先で、カメラ南南東方向が二本松藩丹羽家下(中)屋敷跡になると思います。長者丸通り、この先左に船光稲荷神社があります。