佐伯藩毛利家下屋敷跡(元徳山藩毛利家下屋敷跡)

マーカーは徳山藩毛利家広尾下屋敷跡です。

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[幕末佐伯藩毛利家下屋敷地は江戸時代初期徳山藩毛利家下屋敷がありました。徳山藩毛利家の屋敷地は幕末の佐伯藩毛利家下屋敷地と旗本岡部勘解由屋敷地を合わせた範囲になります。佐伯藩毛利家と徳山藩毛利家の血縁関係はありません。wikipedia・佐伯藩によると、
『佐伯藩毛利家の藩祖高政は毛利姓を名乗っているが、長州藩の大江姓毛利氏との血縁関係はない。高政は本能寺の変が起こったときは秀吉に従って備中高松城にあったが、秀吉の中国大返しのとき、秀吉の命で兄・重政とともに毛利家の人質となった。高政の元来の姓は鯰江氏流の森であるが、毛利輝元から大いに気に入られたため、兄弟ともに毛利姓を与えられ、以後は毛利と称したものである。』
としています。]

毛利元次
[毛利 元次(もうり もとつぐ)は、周防国徳山藩3代藩主。初代藩主・毛利就隆の四男。幼名は亀之助。官位は従五位下、飛騨守。
寛文7年(1667年)に京都で生まれる。母の性雲院は京都の紺屋の娘で、毛利就隆の継室である禅海院(中川重政の娘)に仕えていた。このように元次は庶子だったため、家臣の永井家の子として京都で育てられた。初名を永井賢富、次いで永井賢充と名乗る。延宝5年(1677年)、父の計らいで家老として藩に迎えられ、貞享4年(1687年)には異母弟で2代藩主である元賢から屋敷を与えられた。元禄3年(1690年)、元賢が若死にすると、その養嗣子として跡を継いだ。実際には元賢の庶兄だが、生年を寛文11年(1671年)と偽り、庶弟として養嗣子となっている。この時、本家の萩藩は元次ではなく、長府藩主・毛利綱元の次男である毛利匡英を徳山藩主に擁立しようとしていたとされる。
徳山藩3代藩主
就隆は晩年の十数年間江戸に滞留して直接政務を執れず、元賢は幼少で封を継いでいたため、元次が藩主となった頃は高禄家臣の権勢が強くなっていた。そこで翌元禄4年(1691年)6月25日に藩主として初めて徳山に入部した元次は、藩政改革として衣類定や家中諸法度といった法制を整備するとともに、藩主の実権強化に乗り出した。手始めとして、同年7月28日、萩藩からの付家老で1300石を知行する次席家老の神村隆忠を、妻が百姓家の裏山から木を5本盗んだという理由により閉門に処し、10月25日には知行のうち600石を召し上げた上で隆忠を隠居させた。これによって12月には神村家の一族は追われるように徳山を立ち退いて広島へと移り、徳山藩次席家老の神村家は断絶した。同じく萩藩からの付家老で1700石を知行する筆頭家老の桂賢恒も元禄6年(1693年)12月に隠居させられ、徳山藩筆頭家老の桂家も断絶することとなる。元次が桂・神村の両家を断絶させた理由として、『徳山略記』では、藩主となる以前の元次に対して同輩以下の扱いをしていたことや、毛利匡英擁立を図ったことを挙げている。元次が藩主就任早々、萩藩からの付家老の家を断絶させたことは、付家老を通じて徳山藩へ意向を反映させようとした萩藩に対する拒絶姿勢を示すものであった。
元次は、かつて『塩鉄論』を読んで、この書が経国済民に有益であると知り、かねて私淑していた京都の伊藤仁斎の子・伊藤東涯に依頼して、訓点を加えて世に刊行した。また、宇都宮遯庵・桂方直・長沼玄珍・林義端ら当代一流の学者を招き、優遇した。藩政にも大いに文教を取り入れ、就隆以来の制度を整え、徳山の本町筋の町名を定め、城下町の発展にも種々画策するところがあった。居館の傍らには学問所を兼ねた遊息の場として棲息堂を建て、また松屋の亭を設け、「松屋十八景」を選んだ。また、自ら遠石八幡宮と遠石町のことを叙して、『遠石記』を作り、桂方直に『松屋十八景記』、長沼玄珍に『徳山府記』を作らせ、更に関係の詩文を集めて『徳山名勝』及び『徳山雑吟』を刊行した。
折りしも、本家萩藩において藩主毛利吉広が死去し、輝元系が断絶した際に、血筋的には最も吉広に近かったが、家臣永井氏の養子となって毛利氏から外れていた時期があったために後継者候補から外され、秀元系の吉元が藩主となった。これ以前、元賢が死去した際に長府藩が徳山藩主の後継者に秀元系の人物を押し込もうとしていたこともあり、徳山藩と秀元系の長府藩や萩藩との確執が決定的となる(「毛利重就」吉川弘文館)。
徳山藩改易
正徳5年(1715年)に万役山事件を引き起こして本家の萩藩と対立し、この騒動が原因で幕府の命令により、翌年に徳山藩は改易されて萩藩に一時編入され、元次は身柄を出羽新庄藩に移された。
その後、奈古屋里人ら元の家臣団の尽力、また萩藩主の吉元も元次の隠居は要求したが改易は想定外で、再興を幕府に願い出たこともあり、元次の次男・元堯が享保4年(1719年)5月に藩主となることを許されて徳山藩が再興された。しかし、元次は流罪中に病にかかっており、同年11月19日に京都で死去した。享年51。
人物
元次は剛毅にして果敢、文武両道に秀でていたが、気性の激しい人物であった。また、明敏で好学の聞こえが高く、文化人として優れており、将軍・徳川綱吉の教書講釈にもしばしば列席し、その詩文は上皇の上覧に入れたことがあると伝えられている。また、著作に「遠石記」、「徳山名勝」、「徳山雑吟」など多数あり、「棲息堂」という学問所も創設している。また、信仰心にも篤く、朝夕に座して太華山頂の不動尊を遥拝していた。遥拝の際に座った石が、現在も徳山動物園内に「遥拝石」として残されている。  (wikipedia・毛利元次より)]

[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
●寛文年間(1661~1672) – このころ徳山藩主毛利家拝領屋敷(旧豊分町)ができる。
●宝永年間(1704~1710) – 徳山藩主毛利家抱屋敷跡(旧上智町)が盛岡藩主南部家抱屋敷となる。
●正徳2年(1712) – 盛岡藩主南部家抱屋敷(旧上智町)、八戸藩主南部家抱屋敷となる。
と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – [江戸図正徳四(1714)年]」(コマ番号3/5・絵図中央上方向、山口伊豆守左上に毛利飛騨守(毛利元次)が描かれています。その上、毛利又四郎は長府藩4代藩主で後の長州藩の嗣子・毛利元朝になりますが、「御府内場末往還其外沿革圖書. [11]拾七下」の159/196では毛利日向守抱屋敷、160・161/196では毛利飛騨守抱屋敷、162/196で南部遠江守(八戸藩)抱屋敷になっています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図四つ切左下・東北寺下に毛利安房守(毛利高泰)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [12]拾七下(嘉永元年・1850年)」(コマ番号2/7・絵図中央右に毛利安房守(毛利高泰)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [11]拾七下」(コマ番号98/196「延宝年中(1673年-1681年)之形」からコマ番号100/196「元禄四年(1691年)之形」まで毛利日向守(徳山藩・毛利元賢)が描かれています。コマ番号101/196「元禄十一年(1698年)之形」から103/196「正徳三年(1713年)之形」まで毛利飛騨守(徳山藩・毛利元次)が描かれています。コマ番号106/196・「文化八年(1811)之形」に毛利美濃守(佐伯藩・毛利高誠)下屋敷、コマ番号107/196・「当時(嘉永元年・1850年)之形」に毛利安房守(佐伯藩・毛利高泰)下屋敷が描かれています。)

東京府豊多摩郡渋谷町全図|公益財団法人特別区協議会」(地図四つ切右下・大字渋谷下広尾町の27-35番が佐伯藩毛利家下屋敷跡になると思います。)

カメラ位置は恵比寿橋入口交差点で、カメラ北方向小路両サイドが佐伯藩毛利家下屋敷跡になります。