マーカーは佐賀藩鍋島家下屋敷跡です。
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鍋島直正
[鍋島 直正(なべしま なおまさ)は、江戸時代末期の大名。肥前国佐賀藩10代藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道の娘・幸。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の諱は斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人。
文政10年(1817年)、将軍・家斉から松平姓を与えられた。天保元年(1830年)、父の隠居を受け17歳で第10代藩主に襲封。将軍・家斉の偏諱を与えられ斉正と名乗る。当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主・斉直の奢侈や、2年前のシーボルト台風の甚大な被害もあって、その財政は破綻状況にあった。斉正自身が江戸藩邸を佐賀に向けて出発するやいなや、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せ、借財返済を申し立てたため、斉正の行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験をしている。
斉正は、襲封するとともに藩政改革に乗り出したが、当初は江戸にいた前藩主・斉直とその取り巻きら保守勢力の顔をうかがわねばならないことが多く、実行できた改革は倹約令の発令がせいぜいであった。しかし天保6年(1835年)、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼するという危機にあたり、荒廃していた佐賀城本丸に御殿を移転・新築させる佐賀城再建を、斉直の干渉を押し切って実行した。
これを皮切りに、役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。役人削減とともに藩政機構を改革し、出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢へ登用した。
さらに長崎警備の強化を掲げるも、幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。高島秋帆の西洋砲術に多大な関心を寄せるが、守旧派重臣の反対や幕府に睨まれるといった懸念があったため、義兄で武雄領主の鍋島茂義に先導させてその導入に励んだ。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関・蒸気船(凌風丸)までも完成させることにつながっている(それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている)。
また、当時不治の病であった天然痘を根絶するために、当時佐賀藩医であった伊東玄朴が藩に痘苗の入手を進言した。藩は長崎出島のオランダ商館長に牛痘苗の入手を依頼した。出島の医師オットー・ゴットリープ・モーニッケがバタヴィアから牛痘苗を入手し、1848年6月に長崎にて種痘が施され、その一部が善感した。この痘苗は、長崎・佐賀を起点として複数の蘭方医たちを中心とするネットワークによって、5か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播する。長崎の唐通詞頴川四郎八から京都に送られた痘苗によって、同年10月笠原良策とその師である日野鼎哉が京都に、京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月大坂に、「除痘館」という種痘所をそれぞれ開設した。 一方佐賀藩では、7月に長崎で鍋島藩医の楢林宗建の息子に接種、善感した。8月には楢林によって佐賀藩領にもたらされ、直正の長男の直大にも施された。同時期に種痘事業を担当する引痘方が設けられ、医師の出張・宿泊費を藩が支給し無料で藩領に接種が開始された。並行して熟達した医師に医業免札を発行する制度が導入された。10月に佐賀藩江戸藩邸に送られた痘苗から、牛痘法は関東以北の各地に広がることになる。
嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが来航し、江戸幕府老中の阿部正弘が各大名に意見を募った時、斉正はアメリカの武力外交に対して強く攘夷論を唱え、品川台場建設に佐賀藩の技術を提供し、正弘より信頼を得た。一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を知っており、イギリスの親善外交に対して開国論を主張する。
文久元年(1861年)、48歳で隠居。家督を長男・直大に譲って閑叟と号した。
文久2年(1862年)12月25日、上京した閑叟は関白近衛忠煕に面会し、京都守護職への任命を要請している。この時に閑叟は「長崎警備は他大名でも担当できるが、大阪・京都の警備には実力が必要であり、私であれば足軽30人と兵士20人の兵力で現状の警備を打ち破れる」旨の発言をしている。この件は他に島津藩などからの守護職要請もあり立ち消えとなった。
質素倹約と経営手腕を商人たちに「そろばん大名」と呼ばれた。『葉隠』に表される保守的な風土にありながら、当時は医者の学問と侮蔑されていた蘭学を「蘭癖大名」と呼ばれるまでに熱心に学んだ。他藩が近代化と財政難の板挟みで苦しむ中、財政再建と軍備の近代化に成功したが、盟友であった阿部正弘が没した後の、激動の中央政界では佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒された。参預会議や小御所会議などでの発言力を持てず、伏見警護のための京都守護職を求めるものの実らず、政治力・軍事力ともに発揮できなかったことから、藩内における犠牲者を出さずに済んだ。
鳥羽・伏見の戦いの際には、上京中で藩主も家老も京都に不在だったため、薩摩藩からは佐賀征伐を主張する声が挙がったが、薩長(薩摩藩・長州藩)側が勝利に終わって以降は上京した佐賀藩も新政府軍に参加した。戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかった。明治政府が近代化を推し進める上で、直正が育てた人材の活躍は大きく(佐賀の七賢人と田中久重の項も参照の事)、直正自身も議定に就任する。これらにより、討幕運動には不熱心であった佐賀藩であったが、薩長土肥の一角を担うこととなった。明治元年(1868年)に直正と改名した。
廃藩置県に知藩事(大政奉還後の藩主)として最初に賛同したほか、明治2年(1869年)6月6日、蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用、7月13日には初代開拓長官に就任したが、蝦夷地へ赴任することなく、8月16日に岩倉具視と同じ大納言に転任した。財政基盤が弱かった新政府に代わり、旧幕府軍との戦いの褒賞を割って開拓費用に当て、諸藩に先んじて佐賀藩の民を移住させたほか、満州開拓、オーストラリアでの鉱山開発などを提言するなど、以後50年先に待ち受ける、外交、食料、資源などの問題を見通していた。
明治4年(1871年)1月18日、藩邸にて病没。享年58。 (wikipedia・鍋島直正より)]
「東京都立図書館アーカイブ – 四ッ谷千駄谷内藤新宿辺絵図(嘉永2[1849]改)」(絵図四つ切右上・八幡宮下に紀伊殿、その左に松平肥前守(鍋島直正)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図(文久二年・1862年)」(絵図四つ切左下・紀伊殿下屋敷左に松平肥前守(鍋島直正)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は鳩森八幡神社前交差点で、カメラ東方向、東京体育館、聖輪寺敷地前までが佐賀藩鍋島家下屋敷跡になると思います。