小田原藩大久保家下屋敷跡(駐日トルコ共和国大使館)

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関連リンク – 小田原藩大久保家上屋敷跡小田原藩大久保家下(中)屋敷跡

大久保忠朝
[大久保 忠朝(おおくぼ ただとも)は、江戸時代前期から中期にかけての大名・老中肥前国唐津藩2代藩主、下総国佐倉藩主、相模小田原藩主。
大久保忠隣の孫にあたり、従兄の大久保忠職の養子となる。家督を相続する前より小姓、小姓組番頭を勤め、寛文10年(1670年)、肥前唐津藩9万3000石を相続し、延宝5年(1677年)、老中となる。1681年(天和元年)12月8日、老中首座となる。1684年(貞享元年)8月24日、江戸城内にて大老堀田正俊殺害事件に遭遇。その場で当事者の稲葉正休を討つ。
貞享3年(1686年)には祖父忠隣の領地であった小田原への復帰を果たす。漸次加増を受け、最終的に11万3000石となる。
土芥寇讎記』における人物評価、特に「謳歌評説」などでは忠朝を、戸田忠昌阿部正武ら同僚と並べて「善人の良将」と評している。徳川吉宗が世に出るきっかけを作った人物でもある。
徳川御三家紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれた、徳川頼方(吉宗)が父・光貞と共に徳川将軍綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えさせられていたが、老中大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が叶った、と伝わる。しかし兄の頼職とは叙任も新知も石高までもが並んでいるため、兄と差をつけられていたという話は疑わしい。
1698年(元禄11年)2月15日、老中辞職。10月16日、隠居し跡を長男・忠増が継ぐ。
1712年(正徳2年)9月25日、卒去。享年81。  (wikipedia・大久保忠朝より)]

大久保忠増
[大久保 忠増(おおくぼ ただます、明暦2年(1656年) – 正徳3年7月25日(1713年9月14日))は、江戸時代の大名、老中。相模国小田原藩第2代藩主。
宝永噴火と藩政
宝永4年(1707年)11月の富士山噴火(宝永大噴火)は、約2か月前の宝永南関東地震を契機に発生したといわれているが、小田原藩領のうち、足柄上郡駿東郡が大打撃を受けた。忠増は、家臣柳田久左衛門に命じて被害状況を調べさせたが、忠増は老中として江戸にあり、直接指揮がままならなかったこと、小田原藩は4年前の元禄大地震の余波から立ち直れず、復興資金繰りに難渋したこともあり、藩の救済は捗らず、このため、被害の大きかった足柄上郡104ヶ村と駿東郡59ヶ村の住民は幕府に直訴におよぶ構えをみせた。そのため、忠増は御宝物の正宗の太刀を売り、朝夕に食事も節制し、必要ならば自らが農民たちに代わって灰を取り除くための資金を将軍に願い出ると約束することになった。ここに至り忠増は藩単独での復興をあきらめ、幕府に救済を願い出た。
翌宝永5年(1708年)1月3日、幕府は被害の大きかった足柄地方と御厨地方(現御殿場市)の6万石を天領とし、藩には代わりに伊豆美濃播磨のうちに代替地が与える処分が出され、早くも1月7日には関東郡代伊奈忠順を復興総奉行に任命し、その資金は全国から100石につき金2両という割合で高役金(臨時課税)を課して集めた48万両余を当てる一方、被災地の土地改良・河川改修の手伝普請に備前岡山藩など5つの諸大名に分担せしめた。
正徳3年(1713年)7月25日に死去した。享年58。跡を六男・忠方が継ぐ。足柄・御厨地域6万石が小田原藩に還付となったのは35年後の延享4年(1747年)で、火山灰が降り積もったため領内の酒匂川はしばしば土砂氾濫・洪水を繰り返し、最終的に足柄平野の復興したのは、噴火発生から76年後の天明3年(1783年)である。  (wikipedia・大久保忠増より)]

[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に
●寛文年間(1661~1672) – このころ原宿に安房北条藩主屋代家拝領屋敷ができる。(※北条藩は屋代家が1638年-1712年、3代約70年にわたって治めたが、1711年に発生した万石騒動によって改易された。その後、屋代家は屋代氏の祖先の功績などを考慮されて3000俵の知行を与えられ、旗本として存続した。)
天明7年(1787) – 原宿の屋代家屋敷の一部が上知となり、遠州横須賀藩主西尾家下屋敷となる。(※後の三草藩丹羽家下屋敷跡と思われます。)
●文化4年(1807) – 原宿の屋代家屋敷、新発田藩主溝口家下屋敷となる。
●文化9年(1811) – 原宿の溝口家屋敷の大部分が津和野藩主亀井家下屋敷となる。
●文政5年(1822) – 原宿の亀井家下屋敷、尾州今尾藩主竹腰家下屋敷となる。
と小田原藩大久保家へ至る前の今尾藩竹腰家屋敷地について記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 青山辺場末絵図. [2](寛保延享之頃・1741年-1748年)」(コマ番号2/4・絵図中央右下、井伊掃部頭下に屋代左衛門と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 赤坂今井谷青山渋谷麻布白銀広尾 : 享和(1801-1804年)之頃」(絵図左上に亀井隠岐守(亀井矩賢)屋敷地が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 青山長者丸辺之図(嘉永4[1851])」(絵図右下・隠田川下に亀井隠岐守(亀井茲監)下屋敷と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図上中央左に竹腰兵部少輔(竹腰正富)下屋敷が描かれています。

東京都立図書館アーカイブ – 東都青山絵図(嘉永6[1853]/安政4[1857]改)」(絵図上中央右・松平美濃守(高崎藩)下屋敷右に大久保加賀守(大久保忠愨)下屋敷が描かれています。松平美濃守(高崎藩)下屋敷はこの後松平相模守(池田慶徳)屋敷地、東郷神社となります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号2/5・絵図中央下に大久保加賀守下屋敷が描かれています。その右下に松平相模守抱屋敷が描かれ、そこが東郷神社になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 千駄ヶ谷其外村々諸屋敷色分図. [3]」(コマ番号21/52・小田原藩下邸が小田原藩大久保家下屋敷で、その下の茶畑が三草藩丹羽家下屋敷跡になると思います。右に鳥取藩(池田慶徳)抱邸が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 東京府豐多摩郡内藤新宿町千駄ヶ谷町(1920.1)」(地図中央下・榊原邸から字灰毛丸362番までが小田原藩大久保家下屋敷跡になると思われます。その下、字石田に池田邸と記述されています。)

カメラ北東方向が駐日トルコ共和国大使館正門です。