マーカーは山形藩水野家下屋敷跡です。
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山形藩水野家
[弘化2年(1845年)遠江国浜松藩より水野家が入部し明治維新を迎えた。水野家は、天保の改革に失敗した水野忠邦が失脚したことによって、子の忠精が山形藩に左遷されたものだった。
幕末に山形藩は、周辺の米沢藩、仙台藩などとともに奥羽越列藩同盟に加わったが、同盟の主要な藩が降伏するなか山形藩も慶応4年9月17日(1868年11月1日)に新政府軍に降伏。2代藩主・忠弘は時に13歳と若年だったため、分家出身で当時26歳の家老・水野元宣が一切の責任を負って処刑された。明治3年(1870年)近江国朝日山藩に5万石で転封、以後は明治政府直轄の天領となったため、ここに山形藩は終焉した。 (wikipedia・山形藩#秋元家と水野家より)]
[人物叢書の『水野忠邦』中には渋谷・青山方面の屋敷について以下のような記述があります。
1.文政11(1828)年11月以降
忠邦は江戸に帰るとまもなく、青山の下屋敷に、京都好みの風雅な新室を営んで都西館と命名した。その前山には杉・楓などの木立をしつらえ、萩・薄などの下草の趣を添えて小倉山と呼び、また菊園を作って菊寿園と称し、泉水に面してさゞ波の舎と名づけた小亭を設けた。忠邦の雅号を菊園というのはこれに因んでいる。
2.弘化元(1844)年9月5日
唐銅十貫目玉筒二挺、六貫目玉筒・五百目玉筒各一挺を青山久保町(※新宿区霞ヶ丘町3番地)の抱屋敷において鋳造させている(『甲辰日簿』)。
3.天保13(1842)年10月頃
西丸下の居屋敷や中渋谷村の下屋敷において、家中の者に法螺貝・鐘・太鼓による調練をたびたび行なっている(『壬寅日簿』)
4.弘化2(1845)年2月以降
忠邦はしばらく三田葵坂の下屋敷で謹慎していたが、やがて都心から遠く離れた武州豊島郡中渋谷村にある下屋敷に移った。かれの住いは、家臣の長屋を改造したみすぼらしいものであった。
1.は西丸老中に登用された時のこと、2.は老中再任時です。これによれば青山(久保町)の抱屋敷(下屋敷との表記も)にはかなりの規模の庭園施設があり、また鉄砲の製造もおこなわれたりした、ということになります。國學院高校の地は、ある意味水野忠邦の夢の跡(の一部)ともいえるかもしれません。
ここで、現國學院高等学校の地について整理しておくと、当初は『新修渋谷区史』所載図によれば、元松平志摩守抱屋敷あたりに相当すると考えられます。元禄年間にはその北側の元松平摂津守(松平義行)抱屋敷他ともども松平伊賀守(松平忠周)抱屋敷となり、寛政8年(1796)には水野左近将監(水野忠鼎)抱屋敷となるわけです。明治になって隣の現神宮外苑あたりは練兵場となり、國高のあたりは近衛第四連隊の兵舎がありました。 (「平成27年3月11日(水) 國學院高校と大名屋敷3 : 中落合日乗 …」より)]
[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
●寛政6年(1794) – 原宿の上田藩松平家抱屋敷を山形藩(※当時は唐津藩)水野家(水野忠鼎)が譲り受ける。
●天保8年(1837)9月 – 中渋谷の旗本長谷川邸、沼津藩主水野家下屋敷となる。(※このことが山形藩水野家下屋敷地内への旗本長谷川屋敷の移転につながる思います。)
と記述されています。]
「平成27年3月9日(月) 國學院高校と大名屋敷2 : 中落合日乗 …」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図四つ切右上に水野大監物(水野忠精)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号2/5・絵図中央に水野志(?)次郎抱屋敷と描かれています。)
「国際日本文化研究センター – 五千分一東京図測量原図 : 東京府武蔵国赤坂区青山北町近傍(明治17・1884年)」(地図四つ切左下・陸軍火薬庫下の荒木邸左が山形藩水野家下屋敷跡の一部になります。)
「東京都立図書館アーカイブ – 東都青山絵図(嘉永6[1853]/安政4[1857]改)」(絵図四つ切右上に、水野和泉守(水野忠精)下屋敷と旗本長谷川久三郎下屋敷が描かれています。wikipedia・水野忠邦には弟長谷川正道が記述されています、「平成27年3月9日(月) 國學院高校と大名屋敷2 : 中落合日乗 …」では正道が長谷川久三郎家に養子となる守修であるとしています。)
[第二次長州征伐時に、津和野藩が進軍しないことに業を煮やした幕府が征長督促の使者として軍目付の長谷川久三郎を派遣している。津和野藩は幕府軍が撤退すると、幕府が目付として残していた長谷川久三郎を長州藩に引き渡して和睦している。 (wikipedia・亀井茲監より)]
長谷川久三郎参考サイト – 「青山学院史探訪-江戸時代の青山キャンパスの「お殿様」・国文学研究資料館准教授 西村慎太郎」
カメラ位置はスタジアム通り・日本青年館前交差点で、カメラ南方向道路左側を含む、国学院高等学校、都立青山高等学校までが山形藩水野家下屋敷跡になります。