岸和田藩岡部家下屋敷跡(国立代々木競技場第一体育館)

マーカーは国立代々木競技場第一体育館です。

関連リンク – 岸和田藩岡部家上屋敷跡(元村井吉兵衛邸、現日比谷高校)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP856・コマ番号472/553から岸和田藩屋敷の変遷について記載されています。P858・コマ番号473/553「下屋敷 渋谷村 豊多摩郡千駄ヶ谷町隠田」がこの地になります。

[和泉国岸和田を領した岡部家の下屋敷が元禄15年(1702)から明治維新までありました。この下屋敷は「通明観」といい江戸に名高い庭園の一つでした。その一部であった岡部ヶ池は昭和の初期まで残っていました。 この地は戦前の代々木練兵場にあたり、戦後はワシントンハイツ(在日米軍施設)の一部となり、前回の東京オリンピックを機に国立代々木競技場になっています。  (「港 区 渋谷区 – 渋谷区立図書館」より)]

地形との関係 江戸時代の代々木公園周辺 現在の代々木公園周辺

[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
『●寛文10年(1670) – 岸和田藩主岡部家の抱屋敷ができる。
元禄15年(1702)11月 – 岸和田藩主岡部家抱屋敷の一部、同家下屋敷となる。
●文久2年(1862)6月 – 岡部家下屋敷の一部、村上藩内藤家下屋敷となる。』と記述されています。岸和田藩岡部家は幕末まで約200年間、この地に屋敷地を構えていたことになります。]

岡部長寛
[岡部 長寛(おかべ ながひろ)は、和泉国岸和田藩9代藩主・岡部長慎の次男として岸和田城にて誕生。幼名は第二郎。10代藩主・長和の弟で、11代藩主・長発の兄に当たる。
長兄・長和がいたため、本家の家督を継ぐことはできず、天保2年(1831年)12月27日に分家の旗本・岡部長貞の養嗣子となる。後に小姓となる。天保9年12月16日、従五位下・筑前守に叙任する。しかし、安政2年(1855年)2月25日、本家の家督を継いでいた弟の長発が早世し、長発の子である長職も幼少だったため、本家の家督を継ぐこととなった。
幕末の動乱の中で、藩政においては軍政改革や藩校・講習館の増築を行なって修武館と改名するなどしている。当初佐幕派として行動していたが、戊辰戦争が起こると新政府側に与した。慶応4年(1868年)4月7日、新政府に献金を申し出る。同年6月、老臣岡部正路の処罰をめぐる藩内の対立により、新政府が調査に乗り出す。同年9月5日、家中の取締りを問題とされて、新政府から差控を命じられる。同年9月20日、隠居を願い出る。明治元年12月28日(1869年)、隠居を許可されて、養子の長職に家督を譲った。  (wikipedia・岡部長寛より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – [江戸図正徳四(1714)年](コマ番号3/5・絵図右上、井伊掃部頭上屋敷左にオカベミノ、松平左京と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 市ヶ谷四谷青山代々木辺迄 : 寛保延享ノ頃(1741年-1748年)」(コマ番号4/6・絵図中央右、長泉寺下、稲荷(北谷稲荷神社)左に岡部美濃守(岡部長著)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図」(絵図は嘉永6年(1853年)尾張屋清七版で、絵図四つ切左上、長泉寺上に岡部美濃守(岡部長発)下屋敷が描かれています。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年の地図で、代々木練兵場の北谷稲荷の上に岡部ヶ池が描かれています。)

東京府豊多摩郡渋谷町全図|公益財団法人特別区協議会」(地図四つ切左上・大字上渋谷の右方向、長泉寺上の字前耕地63番の白地部分が岸和田藩岡部家下屋敷跡と思われます。)

カメラ位置は長泉寺の北側道路で、カメラ西方向道路東側を含む西側、国立代々木競技場第一体育館までが岸和田藩岡部家下屋敷跡になると思います。

カメラ位置は北谷稲荷神社北参道前で、カメラ北北東方向一帯が岸和田藩岡部家下屋敷跡になると思います。

国立代々木競技場第一体育館前のカメラです。