広島藩浅野家下屋敷跡

マーカーは広島藩浅野家下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP911・コマ番号499/553から広島藩屋敷の変遷について記載されています。P914・コマ番号501/553「下屋敷 青山原宿」がこの地になります。

浅野長訓
[浅野長懋(ながとし、広島藩7代藩主・浅野重晟の四男)の五男として誕生した。長訓は新田藩主時代および明治維新以降に名乗った諱であり、広島藩主時代は浅野 茂長(もちなが)を名乗った。
文政4年(1824年)6月17日、広島新田藩主・浅野長容の婿養子として家督を継ぐ。従五位下・美作守に任官し、後に近江守に改める。安政5年(1858年)11月4日、広島藩主・浅野慶熾の死去に伴い、その跡を継ぐ(広島新田藩主は甥で養子の浅野長興(のちの長勲)が継いだ)。通称を安芸守に改める。
9代藩主・浅野斉粛(なりたか)の時代から広島藩は財政難に見舞われていた。このため、長訓は野村帯刀辻将曹の両名を家老(執政)として登用し、藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。慶応2年(1866年)、第二次長州征討が勃発した際は停戦を主張し、7月には岡山徳島両藩主との連署により幕府・朝廷に征長の非と解兵を請願した。
明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて諱を長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、広島新田藩主の浅野長勲に今度は宗家の家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)8月、長訓の東京移住に際し、それを阻止し引き留めようとする農民一揆「武一騒動」が起こっている。明治5年(1872年)7月26日、61歳で没した。  (wikipedia・浅野長訓より)]

[「渋谷区立図書館-渋谷区史年表」に、
●寛文4年(1664)3月 – 原宿に広島藩主浅野家拝領屋敷ができる。
●寛文10年(1670) – 穏田熊野神社、浅野家抱屋敷内に囲い込まれる。
●天保13年(1842) – 2月 – 浅野家下屋敷が上知となり、穏田熊野社が村持に戻る。
と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央上・松平安芸守(浅野長訓)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 千駄ヶ谷其外村々諸屋敷色分図. [3]」(コマ番号4/52・絵図中央に廣島藩邸が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 東京府豊多摩郡内藤新宿町千駄ケ谷町 (出版年-1911.7)」(地図四つ切右下・字南原宿の下半分と字赤羽根の一部が広島藩浅野家下屋敷跡と思われます。)

カメラ位置は表参道、原宿署 神宮前交番前交差点で、表参道右側を含む、カメラ東北東方向が広島藩浅野家下屋敷跡になると思います。